飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

つらいなぁ と思う時には

生きていると

うまくいかない時や

どうしても自信がもてない時って

ありますよね。

 

 

そんな日が続けば

ただ苦しくて「もう勘弁してよ」と思うのですが

 

そういう「気持ちを知る」ために

そうなってることもあるかもしれません。

(違うかもしれませんが)

 

 

そんなの いらないよ!

という方。

 

まぁ まぁ

ここはひとつ 落ち着いて。

 

 

 

 

今朝は よく晴れました。

 

青い空に 分厚い真っ白な雲が

あちこちに浮かぶ

気持ちのよい朝です。

 

昨晩しっかり降った雨が

いろんなものを洗い流して

サッパリさせてくれたおかげですね。

 

 

土砂降りの中を歩くのはつらいです。

 

 

だから昨日の晩みたいな時

大抵の人は 家の中や

車の中などにいて

雨が止むのを待ちます。

 

 

でも中には 傘も無くて

でも急いでて

 

だから土砂降りでも

濡れたまま歩く人もいます。

 

 

 

その人も濡れたくて

濡れるわけではなく

 

それ以外ないから

そうしているだけですよね。

 

 

靴も 服も カバンも

全身ずぶ濡れで。

 

 

何もかもが

重くて 冷たくて。

 

 

土砂降りの中を歩いたことのある人にしか

その気持ちや感覚は

わかりません。

 

 

「そんな経験はしたくない。」

 

 

大抵の人はそう思います。

 

 

中には楽しくて

そうする人もいるかもしれませんね。

 

そういう人は

ちょっと脇に置いて。

 

 

したくないことを

実際「経験しないで済む人」もいますが

頭でそう思っても

実際には「経験してしまう人」もいます。

 

 

これはわたしの推論ですが

「経験するか しないか」は

その人の「魂のチェックリストの違い」

だと思います。

 

 

今世では「経験していない」けれど

魂では経験しているから

「もう経験しない」で済む人。

 

 

今世では「経験していない」ので

頭では「したくない」けれど

「経験しなくてはいけない」人。

 

 

例えば

経済的な不安や

家族の問題。

 

 

仕事での問題や

人間関係の問題。

 

 

大変なことや つらいことを

「味わいたい!」と思う人は

あまりいませんよね。

 

 

望んでいないはずのことを

味わうと

 

「なんで?!」と

思いますし

 

早くここから抜け出したい!と

誰でも思います。

 

 

でも ある事柄について

「経験すること」で

初めて 見えるようになる

わかるようになることが 確かにあります。

 

 

つらいのだけれど

その「渦中に入る」ことで

やっと ある一瞬 それがわかったりします。

 

心の奥にある

ずっとしまってあった

「忘れていた」悲しみや苦しみに

アクセスする時。

 

 

 

そのポイントにある

「自分の悲しみや苦しみ」は

例え忘れていても

「既に知っている」ものです。

 

 

ですから

そのこと自体は

「こんなことがあった」と思っても

驚きはしません。

 

 

ですが

それを「引き起こした」と思っていた

人物や出来事については

どうでしょうか?

 

 

自分の中では

その人物や

その出来事についての

「ある側面だけ」が感じられ

 

だから「こうだ!」と

決めつけてしまっていたりします。

 

 

それが幼い頃ならば なおのこと

自分の受け取った感覚に即した

「相手の印象だけ」が強く残るでしょう。

 

 

しかし

今味わっている

「悲しみや苦しみ」を持ったまま

その当時の

「悲しみや苦しみ」にアクセルする時。

 

 

当時の自分では

「見えなかったもの」

「気づけなかったもの」

「区別できなかったもの」が

 

 

初めて 見えたり

初めて 気づけたりします。

 

 

 

すると

その人物について

その出来事について

 

今の自分だからこそ

「そうだったのか」と思う時

 

ずっと「こうだ!」と

決めつけていたものが フッと解けて

 

今までとは「違った形」

「違った角度」まで見えるようになり

 

そのことで

自分の中にある

「悲しみや苦しみ」が

溶けていくキッカケになるのです。

 

 

幼かったばかりに

人との距離感がつかめず

 

相手の言動をそのまま受け止めて

「”自分に” 向けられた」と思いこんでいた

攻撃や 悪意。

 

 

 

それが実は「その人自身に対する」

恐れや 罪悪感

自信の無さだったり

 

その人自身の持っている

弱さや 不安だったり

 

つまり どれも実際には

「”自分に” 向けられたもの」では無かったと

察っしたり わかったりすると

 

ずっと「こうだ!」と思い込んでいた

「自分と世界」や

「自分と他の人」という視点が

 

「あ 違ったんだ」と

反転します。

 

 

 

それはまるで

手品の種明かしのように

 

わかってみれば

「なんだ そんなこと」と

思えるものです。

 

 

「そんなこと」が

積み重なると

「えらいこと」になってしまうのが

この世界のおもしろいところなんでしょう。

 

 

 

わたしは長年 

父には愛されなかったと

思っていました。

 

 

 

それは幼いころの

父の言動がそうであったから

という理由でした。

 

 

 

けれど

自分が40代の半ばになり

当時の父や母の歳を追うように

歳を重ね

味わいたくなかったことも

何度か味わったことで

「あ こういう気持ちだったのかも」

「あ こういうことだったのかも」

と思うことが多々あります。

 

 

 

自分の未熟さ

 

自分の偏り

 

自分の不純を自覚する度

 

それが周りには

怒りや 不安定さ

 

暗さとなって

響いてしまうことに気づきます。

 

 

 

そういう自分を

申し訳ないとも思うし

恥ずかしいとも思うので

自信が無くなることもあります。

 

 

もし今 子どもがいたのなら

 

こんなわたしを見て

きっと 不安になったり

居場所が無いと感じたり

苦しめてしまうのかもしれないと

思うのです。

 

 

 

そういう今の自分の

日常の気持ちや 感覚が

 

ふとした瞬間

 

過去の自分や環境

 

人物や出来事を

 

あるいは父とわたしの関係を

 

クルンと軽やかに反転させて

見せてくれることがあるのです。

 

 

 

すると もうそれは

「過ぎたこと」

「終わったこと」であり

なおかつ

もう手放していいものだと

わかったりもするのです。

 

 

 

 

わたしはあちこち

不完全なところがあり

 

でも毎日 それを

美しくバランスさせようと

あれこれトライしたり

しなかったりして 生きています。

 

 

 

決して勤勉でも 勤労でもなく

 

どちらかといえば

だらしのない いい加減な面が

きっと目立つと思うのです。

 

 

 

それでも世界は

そういうわたしを除外したりしません。

 

 

そんなわたしのところにも

 

愛らしい鳥の声は届き

 

花は次々と咲き誇り

出し惜しみせず

次々と枯れていきます。

 

 

 

新緑は萌え

 

空は 晴れたり

曇ったり

雨が降りながらも

 

 

日々 華々しく 朝がきて

しっとりと 夜が訪れるのです。

 

 

 

 

そういう生命の贈り物を

毎日 毎日

ふんだんに受けとっていると

 

 

 

変化することや

変形することが

 

 

 

完全体の固定ではなく

 

 

常に変形しながら

生きていく自分が

 

 

「それでいいのだ」と

祝福されているように感じられるのです。

 

 

 

ずっと朝の場所も

ずっと夜の場所も

もしかしたら どこかにはあるかもしれないけれど

 

 

わたしが生きているこの場所は

 

 

あらゆるものが 巡りながら

 

 

何かと交わり

 

何かと離れ

 

 

何かに染まり

 

何かを染めて生きていて

 

 

全てのものが

ある時は美しく

 

ある時は醜く

 

この目に”そう映るだけ”なんでしょう。

 

 

それらはでも確かに

 

希望であり

 

光であり

 

夢であり

 

現実です。

 

 

 

経験することは

時に「早く終わりたい」ことですが

 

 

 

そういう時は

きっと何か

「もうすぐ見つかるサイン」です。

 

 

 

だから もし今つらいときでも

「自分の生きたい方向」を見つめることを

忘れないでいてください。

 

なげやりになって

無気力になったり

 

暴飲暴食してやる!と

暴れたりしたくなった時

 

割と即効性があるのは

”湯船に浸かる”。

 

しっかりと温かいお湯に浸かって

全身をなでたり

もんだりしつつ 温めます。

 

そしてボーっとします。

 

湯船では

「”温まっていく” 体の感覚だけ」になり

頭はオフにするのがコツです。

 

シャワー派の方もぜひ

そんな時には 湯船に浸かってみてください。

 

体が温まると

いろいろゆるみやすくなります。

 

お風呂でゆるんでおくと

気持ちもゆるみやすくなります。

 

もし すぐにお風呂に入れない場合

心の中にある光を 想像します。

 

場所としては

だいたい胸の真ん中あたりです。

 

その辺りを

温泉のように

”じんわりと 明るく 温かいもの”で

広く

大きく

包んでみましょう。

 

 

ニュアンスとしては

「湯船に浸かった時の感覚」を

思い出してみてください。

 

その感覚で

心の奥の光を

包んでみましょう。

 

そして そのじんわりと 温かいものを

しっかり 味わう。

 

 

息苦しくなった時は

 

開けた場所に行って

高い空を見上げて

お日様を浴びるのもおススメです♪

 

使えるものは使って

 

できることは して

 

楽しく

朗らかに

歩いていこうと思います。

 

 

みなさんにとって

 

わたしにとって

 

6月の世界が

美しく

楽しく

温かいもので溢れていますように。