飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

自分の思いに出会う日々 目の前ではなく理想を見つめて生きる

人は

「自分の”思いや信念”に日々出会う」と

知りました

 

前向きであれば

前向きな

おもくるしいのであれば

そうであるようなことに出会うそうです

 

鏡の法則」や

「ブーメランの法則」

とも表現されます

 

様々なスピリチュアルリーダーと呼ばれる人が

そう提唱していて

「全ては内面への気づきと軌道修正へのキッカケにすればいい」とのこと

 

ほぉ~

 

そう知ってはいても

まだどこか知識だけだったのですが

最近そのことを

ことあるごとに持ち出して

日々のことを見るようにしてみると

「おー!本当だ」

と感心する半面

自分の痛いところを突かれていて

苦笑いしてしまいました

 

先日のこと

 

家族とささいなことで

トゲトゲとした雰囲気になってしまいました

 

一つ一つは

ささいなのですが

それが玉突きのように連続して

あっという間にわたしが飽和状態になってしまったのです

 

まずここで

己の器の小ささを教えられます 笑

 

そして

その場を離れ

自分の内面を静かに見ていると

相手にされて「いやだな」と感じたことを

「実は自分がずっと相手にしている」と気づいて

「本当に鏡だわ」と

納得しました

 

わたし自身の食の好みやそれを貫こうとする姿勢を

「相手の頑固さや偏り 身勝手ともとれる”こだわり”」として

そして

わたしがするようにはしない相手を

「わたしのようにさせたい・相手を変えたい」という思いを

「相手からの拒絶・否定」として

経験したんです

 

「あるなぁ」

と認めた途端

恥ずかしい気持ちになりました

 

自分がそうした思いをまるで持たず

相手をあるがままに受け入れ

認めきっているのなら

そもそもこうしたことは気にもならないのでしょう

 

自分と他の人は別の存在であるため

現実の中で「いやだな」と感じることは

あたかも「自分以外の人の責任・問題」のように感じてしまうことがありますが

鏡の法則

ブーメランの法則からすると

「そうではない」と知ることになります

 

すると

もうどこにも責任転嫁せずに済みます

 

これは思う以上に

ハッピーなことです

 

この世界には災害など

大きく広い範囲で起こる出来事もあり

そういうときには

つい「どこかのなにかのせい」にしたくなるのも

仕方のないことかもしれません

 

その衝撃から浮上するには

様々な道が人の数だけあるからです

 

そうしたときも

全員が「まったく同じ思考・感情を持つか」というと

「そうではない」ということが

ひとつの救いというか

「道の在りか」を示しているのではないでしょうか

 

なにかを悪のようにして

扱いつづけることは

一見「ラクなこと」のように見えますが

実際は逆で

大きな負担となります

 

否定のエネルギーは

肯定のエネルギーよりも

消耗が激しいようなのです

 

そんなとき

大切なのは

目の前の景色・出来事ではなく

「自分の内面の在りよう」です

 

悲しみの中や

怒りの中に身を投じるのではなく

一瞬それに包まれそうになったとしても

そこから身を引きはがし

「自分の在りたい世界」をしっかりと思い描いて

そうあるよう

「今できるささいなことをする」と

きっと少しずつ正気が戻ってくるでしょう

 

それに気づけず

うっかり続けてしまうと

本来のすばらしい個性まで変わってしまいます

 

これはメディアや

人との何気ない会話など

些細なことの毎日の積み重ねですから

丁寧に気をつけたいものです

 

もしも

話している相手がそのようにあるとしたら

「その人は ”今” そう感じているのだな」

と「認めるだけで完了する」と

影響を受け取らずにいられるでしょう

 

重要なことは

だれもが本来の視点を持っていて

本来の力を発揮することのできる

「すばらしく力強い存在である」

ということを思い出すことです

 

相手が「今」どういう状態であっても

それは相手の自由意志です

 

これは尊重されることで

干渉したり

無理に治そうとする必要はないそうです

 

それでも大切な相手には

伝えたくなることもありますよね

 

わたしもそうです

 

そんなときは

相手の考えや好みを否定することなく

「自分が知った”大切”と思うこと」

「自分自身の生き方・あり方」として続け

「それを見てもらえばそれで充分」だそうです

 

わたし自身そうでしたが

誰かに注意されても聞けないものでした

 

ある時

「このままじゃダメだ」と痛切に感じ

スピリチュアルの世界へと進み

いい形で内面が落ち着いていきました

 

誰もが

「本当に変わりたいと望む」時には

おのずと様々な刺激を受け取り

感銘を受け

自然と変わる時がくるようになっているのですね

 

 

「”どういう方向”をいつも見続けているか」

 

「自分の内面に”どういう世界観”を持っていて

その先に”どんな世界観を作り出しているか”」

 

これらは

自分の思い一つでありながら

周りの環境と深く補強しあえるものです

 

その場に居合わせた人と

同じことを見たり聞いたりしても

味わいは人それぞれでよく

それが個性であり

この世界に生きる意味となります

 

もしお互いが同じような方向を見ていれば

「心地よさ」を味わい

違っていたとしても

お互いの違いを認め

「この人らしさは こういう点だなぁ」と

手放すことができれば

それは風のように ただそうあるだけで

すぐに過ぎ去って 何も残しません

 

残るとすれば

「風通しのよい雰囲気だったなぁ」

という感想だけです

 

これが本来の人と人の交わりなんでしょうね

 

今回のことは

わたしが家族に対して

「あたかも自分と同一のもの」として扱ってしまい

結果

相手をコントロールしたいと望んでしまったことが

すべての発端でした

 

そうでないのですね

 

夫婦や親子といえども

それぞれが「尊重された自由意志を持つ存在」として

わたしは家族に接するのが

最低限のマナーだったのです

 

それを忘れていたがために

自ら望んで

「日々の相手のささいな言動」という

「目の前のことに感情を揺さぶられて

相手とトゲトゲした経験をする」ことになりました

 

とほほ

 

いつでも淡々と

「この人にも様々なことはあるけれど

心の底から深く信頼できる 明るくすばらしい存在だ」

とただ静かに信ずるのなら

その思いに出会う日々になると

法則は語ります

 

幸せとは

外側や周りから与えられるものではなく

一見

誰もいなくて

何もなくても

見ようとするなら

その素材はいつでもたくさん用意されていて

ただそれに気づけるかどうかという資質だとしたら

わたしはその資質を持っていると言える人でありたいです

 

以前

あるお寺の住職とお話した際に

お写経の話になりました

 

その際

住職はこう言われました

 

「お写経は大変ですね

 

般若心経はあんなに短いのに

思っている以上に時間がかかりますし

正座をすれば足がしびれます

 

集中して筆が乗ったと思えば

途端にピンポンとインターホンが鳴ったり

スマホが鳴ったりして

中座することもあります

 

それでも日々の中で

淡々と続けることが大切です

 

できなかったことを悔いるのではなく

その後また 続ければそれでいいのです」

 

今回このように思っていても

また忘れてしまう瞬間がきっときます 笑

 

それでもまた

「あ そうだった」と気づいて軌道修正して

「目の前の出来事」は風のように流し

自分で

自分の世界を

穏やかに

さわやかに

健やかに

大切に作っていこうと思いました

 

この記事で

何か一つで役に立てば幸いです

 

ここまで読んでくださって

ありがとうございました