飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

「目の前の出来事」ではなく自分の魂に同調する

ネットのニュースや

テレビの報道

人との会話で見聞きすることは

「なんとなく」受け取っていると

その色合いが強烈であるほど

記憶に残りやすいようです

 

こうした情報に触れた後は

意識して自分の内側や

頭の中に漂う思考を眺めることが大切になります

 

もし見聞きした情報の影響が残っていると感じるなら

「これは今見聞きしたもので

自分自身から発したものではないな」と気づき

その色合いを「手放す」と決めることが大切ですね

 

ささいなことですが

自分自身へのケアとして

習慣にするといいように思います

 

物事や人を理解するには

まず知ることがスタートですが

「理解すること」と「同調すること」は違いますね

 

相手が

「こうでこうで大変で」

とこぼしたとき

「そうだったんですね」と

話を聞く際に

「この人は”今は”そう感じているんだ」

「この人は今そういう状態なんだ」と

「知ること・理解することは必要」ですが

そこでよかれと感情移入してしまうと

その会話が終わった後も

ずっとその会話や雰囲気

その時の気持ちがいつまでも自分の中に残ることがあります

 

「相手の感情・思い・経験」は

いつでも純粋に「相手の世界」です

 

自分のものではありません

 

それを

うっかりよかれと同調してしまうと

相手と自分の間にある

「”魂の境界線”を 自分から取り払ってしまい」

あたかも相手の気持ち・思い・世界を

「自分のもの」のように扱ってしまったため

会話が終わった後でも自分の中に残ってしまうのです

 

相手が親しい相手ならば

困っているときなど

親身になって聞いてあげたくなったり

なにかしてあげたくなったりします

 

わたしもそうでした

 

「同じような経験をしたことがある」

という方も少なくないのではないでしょうか?

 

「”思いやり”ってそういうものでしょ?」

と思っていたのです

 

「思いやりとは そういうものではない」

とわかったのはつい最近です

 

思いやりとは

「この人は 今は大変な環境にいるけれども

この人自身に十分それを乗り越えられるだけの力がある

新しい道を選びたいなら 自分でその道を歩きだせる力があるのだ」

と深く知り

それを尊重すること

つまり

「相手の言動は相手に任せて

 ただ静かに見守ること」だと思うのです

 

そしてその人が

家族など 身近な存在で支えたいのならば

自分の「無理なくできること」で

「その人を大切に思っている・愛している」とわかる行動を

示し続けることです

 

それは本当に

ささいなことです

 

笑顔で朝晩の挨拶をしたり

 

相手が気持ちよく過ごせるよう

日ごろの動作を物静かにしたり

 

いつでも自分自身が

機嫌よくいたり

 

家事をするなら

そこに愛をこめたり

 

職場なら

仕事の一つ一つを丁寧にしたり

 

できる範囲で

自分が助けられることを

率先してやったり

 

相手の話しを聞くにしても

話の内容に反応するのではなく

「そうか」と聞きながらも

相手の魂に向けて

「あなたがとても大切です 応援しています」と

胸の内でささやいたり

 

おもしろいことですが

相手や

遠い外界に向けて

無理やりに働きかけるよりも

自分の半径数十センチで

「すぐにできることを続ける」ほうが

はるかによい道を形作ることができるのです

 

なぜなら

それぞれの「幸せ」とは

「今すでにここに在る ピュアなその人らしさに気づくこと」

であることと同時に

「互いの幸せや尊厳を ”尊重する”こと」でもあるからです

 

ここに

ある家族がいます

 

そこで

ある不幸な出来事がありました

 

その後何日か経って

ある人は

ちょっとしたことで心の中から幸せを感じました

 

ある人は

何を見てもずっと悲しんでいました

 

では

ある人の感じた幸せは不適当であり

他の家族が悲しんでいるなら遠慮しなくてはいけないのでしょうか?

 

ある人の悲しみこそが正当なものでしょうか?

 

どちらもそのままでいいのです

 

幸せを感じることは

いつでも

誰にでもできますが

「自分がそう在ろう」と決めなくては

感じられない時があります

 

そして

全ての人が

「いつでも 幸せを感じる自由」を持っています

 

同じように

悲しみを感じるのも自由です

 

ショックなことが起きた時

悲しみをしっかり感じきることは大切ですから

無理に平気なふりをする必要はありません

 

周囲の人も

その人の気持ちを尊重するのがいいでしょう

 

ただ

本人が望むなら

どれだけ悲しみ続けていてもいいのですが

それを他の人にも強要するのは違いますね

 

出来事に際して

相手に「こうあるべき」と押し付けることは

互いに「相手の領域に踏み込む行為」になります

 

うっかりであれ

意図的であれ

「相手への尊重」とは言えませんよね

 

身近な相手には

どうしても「甘え」が起きやすく

そのため自分から

「境界線を意識する・認める」ことが重要になります

 

もし それを忘れてしまうと

時に「同調を相手に強要したくなること」が起こりえますから

これはよくよく注意して取り扱い

たとえ自分が悲しみの中にあったとしても

他の人の笑顔や幸せを

純粋に「よかった」と感じられる自分でありたいものです

 

それが難しい時は

相手に事情を簡単に説明してから

物理的に距離を置く

(寝室を別にする 休みをズラす)など

相手に求めず

自分にできる工夫をするといいかもしれません

 

これだけでも

気持ちが落ち着き

ゆっくりと自分を見つめる時間を持つことができます

 

そして

「本当の幸せ」は共鳴するものです

 

時に人との会話や

メディアを通して見聞きした際

「あぁ 同じ(方向・感覚)だ」

と「静かな喜びが満ちること」がありますよね

 

そうした感覚が「共鳴」です

 

この感覚が「同調」と大きく異なる点は

「相手に合わせよう・相手をわかろう」と

「無理に今の自分を脇に置いて」

「相手の波長と合わせようとする行為」が一切無いことが特徴です

 

あるがままの自分と

あるがままの相手との間に

自然現象として発生するので

軽やかで

静かで

さわやかなものです

 

そこには窮屈さも

重苦しさもありません

 

すべての人は

それぞれの人生を生きるにあたって

状況によらず「自由意志」が認められ

それぞれが「どのように在るか」を

自分で決められる存在です

 

経験に際して

「どのようにふるまうか」は

一人一人異なるのですが

その経験を他者に向ける・伝える方法も

自由意志ですから

「何をどう表現する」かも

自由意志として認められています

 

そして

それを受け取った時

「どのように反応するか」も自由意志ですから

そこに「いい・わるい」は存在しません

 

ですから

同調したいのならしてもいいのですが

わたしは以上のことからおススメはしません

 

相手や出来事に同調することは

一見「思いやり」に感じられますが

実際にはそうではなく

自分自身に対して

「自分より”他者の思いや意図”を 重要なものとします」

という宣言に近しいものとなってしまう可能性があります

 

わたしは

誰でも「自分を大切に」してほしいですし

自分自身もそう在りたいのです

 

そして

必要な手助けというのは

大げさなことではなく

小さなことから始まるとも思っています

 

もし

自分が見聞きしたことに考えさせられる時には

同調するのではなく

まず「このことは 自分の内側にあるだろうか」と

「自分への問いかけにする」といいのではないでしょうか

 

「他人の振り見て 我が振り直せ」

という慣用句が日本にはありますね

 

遠くの出来事も

身近な出来事も

全ては自らの内側を見つめなおすキッカケにすることで

世界は

平和に

よりよい道へと進んでいけると感じます

 

なぜなら

この世界は

一人一人の行動により形作られているからです

 

何かが起きたとき

○○が悪い

○○はかわいそう

という「二極論」で見てしまえば

たとえ目の前の事態が解決したとしても

また同じようなものがやってくるでしょう

 

「二極論がいい」

という選択をしたことになるからです

 

けれど幸いなことに

それ以外の道がたくさん

私たちにはしっかり認められています

 

どちらか一方ではなく

みんな同じように

魂を持ち

肉体を持った

同じ人同士であるということ

 

誰もが

平和を喜び

自由を愛し

大切な人たちと共に

「明日を感じながら」

いつでものびのびと生きていけることを

なにより重要と感じていること

 

そのことには

なんの区切りも境界線もなく

わたしたちはいつも

同じ気持ちで同じ方向を向いて歩けるということ

 

そうしたことを

自分の今の行動として

ささいな行動として

家族に

周囲にいる人たちに

それがほんの一瞬のすれ違う相手だとしても

日々積み重ねていくことが

大切だと思います

 

明るく

健やかな未来へ向かって

 

そう心から信じて生きることは

誰にでもできる平和活動だと

わたしは思います