飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

家族のかたち

みなさんはキャッチボール

やったことありますか?

 

運動が好きな方ですと

経験あるよー という方が多いのかなと思います。

 

ちなみにわたしが生まれて初めて

キャッチボールをしたのは二十代前半

職場の休み時間でした。

 

誰かが持ち込んだグロ ーブとボールで

みんなでやろうよ みたいな感じで。

 

たぶん軟式のボールだと思うんですが

そもそも投げ方も知らないんですね。

 

どうやったら相手に届くのか

何度やってもどうしても途中で落ちちゃうんです。

 

見かねた周りから

ああだこうだとレクチャーが飛び

ようやっと相手のところまで届いて

できたー!と大喜びしました。

 

そうすると

ちょっとずつ投げる距離も広がって

なんとなくでも届くくらいまではいくようになりました。

 

ところが 相手の構えるグローブに

ボールが届くか というと

それはまたちょっと違うんですね。

 

コントロールは全然効かないんですよ。

 

コツがあるんでしょうけども

わたしはできないままでした。

 

 

 

ボールを使った球技をされる方達は

ウォーミングアップとして似たようなことをされるんじゃないでしょうか?

 

ウォーミングアップとして機能するには

相手が受け取りやすいボールを自分が投げられる。

 

そして

相手も自分が構えている場所に

気持ちよく取れるよう投げられる

という「互いの技術」があってのことです。

 

ですから

初めから気持ちのいいキャッチボールには

なかなか至らないと思います。

 

練習して 練習して

練習し続けた結果

気持ちの良いキャッチボールができるようになる。

 

スポーツであれば

それを当たり前のように「意識してやる」と思いますが

人とのコミュニケーションの場合

どうなんでしょうか?

 

会話のキャッチボールという表現がありますよね

 

しかし

人とのコミュニケーションについて

 

こうやってやるんだよ

 

こうするといいんだよ

 

こうするとこうなるから こうするんだよ

 

このように事細かに誰かに習ったことがある人はどれくらいるんでしょう?

 

今なぜそう思ったかというと

わたしと父の関わりについて

あ これだ

このことをきっと

ずっと おとうさんも わたしも

知らないままだったからだ と

気づいたからです

 

父が わたしに対して投げた愛情のボールの角度と

わたしがここに投げてほしいと

構えていたグローブの場所は

ズレていたんです

たぶん、大幅に。

 

父がここに投げてほしいと

構えていたグローブの場所と

わたしがこれくらい受け取れるでしょと

投げたボールの場所も

やっぱり ズレていたと

今ならわかります。

 

 

 

これが物理的に見えるなら

あ 自分がこれくらいズレてたって

分かります。

 

相手がこうやって投げたなって

わかります。

 

でも会話やコミュニケーションでは

感覚として「あれ?」とは感じても

目には見えません。

 

だからそれが具体的に

どれくらいズレてるのかを

お互いに理解するのは

なかなか難しいのかもしれません。

 

運動でも運動神経のいい人は

同じことを一斉に始めたとしても

飲み込むのが早いですね

 

一方で うまく飲み込めないけれども

一生懸命何度も何度も練習して

やっとわかる できる人もいます

 

スタート段階では

飲み込むのが早い

運動神経のいい方のほうが

グッと伸びるとは思うんですが

ある一点からは

努力できる才能がその人を引き上げていく瞬間が出てくるだろうと思います

 

ただし

そこにはそもそもの課題がクリアになっていることや

そのための方法がいろいろあることを知っていることや

そこを突き抜けていこう!という気持ちも

とても大切です。

 

そこがわからないと

モヤモヤしたまま手のつけようもない

という状態になってもおかしくありません。

 

人とのコミュニケーションにおいても

似たようなことが言えるのでは?

と感じました。

 

感覚で修正できる人もいる一方で

人に言われてもどうしてもわからないことや

そもそも人に言ってもらえないこともあります。

 

どれくらいズレていたのか

 

自分の想定した範囲と

相手の想定した範囲がどれくらい違ったのか

 

もしくはそもそもコントロールが悪いどころか

まるで違うほうにしか投げられてなかったのか

 

そうしたことに気づけないままの人は

大人になっても困っていて

そうした人がそうと気づけないまま

親になることもあるんだろうと思いました。

 

わたしと父との関係は

きっとそうでした。

 

世の中には機能不全と言われる家族の形があります。

 

自分でそう思っていらっしゃる方

 

あるいは専門家に診断された方

 

いろいろだと思いますが

わたし自身は診断を受けたわけではなく

書籍をとおしてそのことを知り

きっとうちはそれに該当すると

漠然と感じていました。

 

そして今思うのは

機能不全だとしても

そこに一切の愛がなかったのか

というと

そうではなかったのかもと

いまさら思ったんです。

 

お互いの構えてるグローブの場所や向きが

そして受け取れる範囲が

お互いに違うっていうことがずっとわからないまま

お互いにそれでも投げるボールが

まるで見当違いの場所にどんどん落ちていたっていうことを

ただお互いにわからないまま

知らないままで

長い長い時が過ぎただけなのかもしれないなと思ったんです。

 

そして

じゃあそこは 親の方が大人だから

親が率先して自分を修正をしてと

子どもの側は思ってしまいがちですが

 

今自分が四十代半ばになってみると

まだまだそんな出来た人物になるには

程遠いなぁとしか思えませんでした。

 

自分が子どもだったころの

両親の歳にようやくなってみた実感は

そんなものでした。

 

親でも

大人でも

見た目や年齢がどんなふうでも

そんな立派なことはちっともできなくて

歳ばかりとって

まるで子どものように

アレもコレも自信なんてないまま

それでもなんとか自分なりに生きていくしかないことを

時には心細く感じたり

時には情けなく感じたりしても

そのままで歩いていくしかないから

せめてたまには泣き言をこぼして

涙を流すことで

自分を励ましたり

なだめたりして

そうやって大人のフリをしているだけだったと思うんです。

 

きっと 父や母も

世の中の多くの人が

何かしら

どこかしら

そうだったのではないかと思うんです。

 

そのことが

子どものわたしには

わからなかったけれど

今ようやくちょっとわかって

そうしたときに

長らく忘れていた

父の手料理のことが

ふと浮かんできました。

 

何一つ温かい言葉も態度もみせてくれたことはなかったけれど

 

確かに温かいご飯を作ってくれていたなぁと

ふと思い出したときに

 

それが何から来ているのか

 

それがどこからやってきていたのか

 

ぼんやりと感じて

 

見えていたのに 見ようとしなかった自分に

気がつきました。

 

わたしは料理がきらいで

何年やってもちっとも好きになれずに

 

だからいつまで経っても

要領よくも

うまくもなりませんでした。

 

母も

父も

たぶんそうでした。

 

それでも

作ってくれてたんだなぁと

なん十年も経ってから

気づくなんて

 

ほんとうに

わたしは

大人のふりばかりだなぁと

思うんです。

 

そういう自分に

父を重ねてみると

あぁ これはまぁ そういうのはあるかなぁと

なにか緩むような感じがして

思い出せてよかったなと

思いました。

 

家族のかたちはさまざまですが

時を超えてしか見えないこともあるのが

生きていく醍醐味なのかもしれません。

 

こうやって

できるだけ生きてる間に

いろんなことに気づきたいです。