飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

探しものはなんですか? 「知ること」と「合うこと」の違いを意識する

瞑想に入る導入部

つまり

”どうやって瞑想を始める?”は

人それぞれです。

 

瞑想をされているあなたは

どうでしょうか?

 

どんなふうに

始めるのがお気に入りですか?

 

 

 

祈りの言葉を音読

あるいは各宗派の人がするように

自らの思いをそのまま声に出し

大いなる存在(神)への祈りとする。

 

一定の数を数える。

 

一定の言葉を唱える。

 

ただ吐く息と

吸う息に集中する。

 

どの方法でも

その人に合うなら

つまり

”瞑想を続けやすくなる”のなら

それは最良です。

 

こうしなくてはいけない

ということはありません。

 

自分なりに環境を整え

平穏な気持ちで

リラックスして座り続けられるなら

どのように始めてもいいと思います。

 

わたしは自宅にいる時

同じ部屋の

同じ場所で行います。

 

その時

部屋に電子機器はありません。

 

音楽を流したい人は

ぜひ活用してください。

 

わたしはやってみて

要らないかなと思い

それからは電子機器を持ち込むことは

なくなりました。

 

週に2回は掃除をします。

 

換気は毎朝

短くても1時間ほど。

 

瞑想の直前は

寒い時期でも

数分ほど換気します。

 

そして

長い時間座っても平気なように

座りやすく場所を整えます。

 

もし寒い時期なら

足元をしっかりと温かくし

全身も冷えないよう

お気に入りの服で包んでから

祈りの言葉を音読して

スタートすることが多いです。

 

なぜか暖房や冷房は

入れません。

 

自分でも

それはどうなの?と

よく思いますが

呼吸するとき

少しでも新鮮な空気をと思うせいか

暖房も冷房もつけません。

 

不思議なことに

瞑想をしていると

暖房冷房がなくても

寒さや暑さを忘れます。

 

「(瞑想)できた!」

という感覚がほとんどなくても

やっぱり忘れます。

 

不思議です。

 

なんででしょう????

 

よくわかりません。

 

ただし 終わった後

毎回 体は冷えきったり

暑かったりするので

人にはおススメしません。

 

ここで大切なことは

”自分にとって どうか(合っているか)”

ということです。

 

インターネットのおかげで

情報につながることは

いつでも 手軽にできます。

 

これは現代にとって

大きな恩恵の一つです。

 

わたしもこの恩恵に

大いにあずかっています。

 

そこには

団体や個人が発信する

種々の意見 それぞれの主張があって

その多様性には驚いちゃいますよね。

 

そうした集まりから

自分の直観に従って

”あるサイト”を選択するわけです。

 

よくあるのは

検索結果から

上位に表示されるものを

なんとなく最初に開く

ではないでしょうか?

 

というか

わたしはそうしています。

 

単なる娯楽なら

それで満足します。

 

けれども

自分の求めるものを

”うまく言えないけどハッキリ意識している”

という時は 違いますよね。

 

どんなに上位で表示されていても

直観的に ”違う”とわかれば

他のサイトを開きます。

 

そしてうまくいくと

「これ!」という言葉に

出会うことがありますね。

 

ある場合は

”新鮮な発見”であり

ある場合は

”言葉にしきれなかったことの再確認”

ということもあります。

 

こういう時間は

本当に楽しく

夢中になります。

 

そうして自分が知りえたことを

自ら試してみることもあります。

 

やってみて

「お!」ということもありますが

中には

「????」となることも

しばしばです。

 

特にスピリチュアルなことは

家事や仕事でのライフハックのように

明確な手応えや証明できる物体は

「ない」ことがほとんどです。

 

ますます

「???」となりがちです。

 

「よくわからん」

 

「ピンとこない」

 

「最初はピンとこないでしょうが」

という断り文句がある場合

「なるほど」と

そのまましばらく続ける人もいます。

 

わたしもそうです。

 

「やってみなきゃわからん」と

思うからです。

 

しばらく続けても

「ピンとこない」なら

それはつまり

「(”今の”わたしには)合わなかった」と

キッパリ区切りをつけるのも

大いにアリ!です。

 

今回お伝えしたいことは

「発信者」と「受け手である”わたし”」には

いつでもあらゆる意味での「違い」があり

それは「ありふれて自然なこと」なので

一見気に入った方法に出会っても

やってみて長期間うまくいかない時は

しがみつかずに 程ほどなところで見切りをつけて

「他の角度から試してみるのも一つの手ですよ」

ということです。

 

本当に魂が求めるものならば

「自分にとっての最適はきっと見つかるから

ちょっとしたことでめげないで!」

ということです。

 

自分なりにやってもやっても

「できない」となると

心が折れます。

 

「できない」ということを

なんの支えもなく続けると

結果として

「わたしは”できない人”」

というレッテルを

うっかり自分に貼ってしまいそうになります。

 

「そうじゃないから!」と

声を大にして お伝えします。

 

「その方法」は

「今のわたし」には

「合っていなかった」

というだけです。

 

ある人にとって

”A”という方法は

「今まさに」最適でした。

 

そのことをシェアしたいと

発信します。

 

それを受け取った人にとって

”A”という方法は

「今のわたし」にとって

ちょっと”シンプルすぎる”のかもしれません。

 

もしくは

「今のわたし」にとって

ちょっと”複雑すぎる”のかもしれません。

 

どちらにしろ

発信者が愛で発信する事柄でも

「すべての人」の

「”今”という点」において

「最適か どうか」というのは

別である ということです。

 

愛で発信されたものは

いずれきっと

すべての人にとって

フィットするでしょう。

 

なぜなら

”愛”として上昇する道を示すならば

いずれ必ず

ひとつの方向へと

集約されるからです。

 

ただし 愛をもって示される道でも

親切・丁寧とは限りません。

 

というのは

「ナチュラルに生得してしまっている」ことは

「理解から抜け落ちる」ことは

よくあるからです。

 

ある人にとっては

”呼吸と同じレベル”で

「言葉にする必要もない」と思うことでも

他の人にとっては

「そこ はしょらないでー!!!」

となることは本当によくあります。

 

その人にとっての

考えずにやっているポイントこそが

自分にとっての

いまいちわからないポイントの場合

同じ人が語るものをどれほど読んでも

わからない可能性があります。

 

そんな時

ちょっとそこから離れて

同じ分野の違う人の意見を知ると

そういうことかー!と

補われることがあります。

 

それはわからないなりにも

ついていこう

やってみようと

ある意味でかじりついてきたことが

活きた証になった瞬間です。

 

今はまだよくわからない。

 

でもきっとこの先に

実感としてわかる日がきっとくると

願いとして持ち続けたからこそ

違う視点からの説明が

スッと入り

欠けていたピースが埋まるようにして

解けた感触を得られた時の

まるで明かりが灯ったような感覚。

 

なんと滋味深いことでしょう。

 

こうしたことは

探求心のある人にとっては

ごく当たり前のことかもしれません。

 

でもわたしにとっては

人生でこんなに長く一つのことを

探求したことは初めてで

とても新鮮な経験でした。

 

「できない」から始めたことが

ほんの少しでも

「できる!」とうれしいもので

それは心に花が咲いたと感じるような

明るく純粋で静かな喜びです。

 

だからこそ

もし 他にも必要な人がいればと

こうして記事を書くわけですが

どこから書き始めたら

本当の意味で伝わるのか

ということを

わたしはいつも忘れているのだ

と気づかされる経験をしました。

 

書物はいつも

わたしに気づきと智慧と発見

そして癒しをもたらしてくれる

かけがえのない存在です。

 

そういう書物との出会いは

心の糧となり 杖となり

時には羅針盤や灯台にもなってくれます。

 

そうした書物は

多くの場合

「今のわたし」にフィットし

親切で丁寧に書いてあるものです。

 

わたしはどうにも

頭脳明晰とはいいがたいので

難しい表現のものは

簡単に投げ出します。

 

そのことに後悔もしません。

 

なぜなら それでも求めていれば

ちゃんと「今のわたし」に合ったものと

巡り合えると知っているからです。

 

そして本当に必要があれば

投げ出した何かは

再びわたしのもとへとやってきて

そのときこそ

わたしはそれを知ることができるからです。

 

この記事を読んで下さる方が

いま ”何か”を求めていて

なかなか見つからない としても

それが愛に沿って求めるものなら

いずれかきっと 見つかります。

 

あるいは

もう見つけているけれど

かつて「違う」と思い

そのまま放置して埋もれたものの中に

それはあるかもしれません。

 

探しものがあると

なぜか人は

遠くへ 先へと

目線ばかりを走らせがちです。

 

わたしもそうです。

 

しかし

その時間があまりにも長く続いて

なお見つからないのなら

おそらく見るべきは

遠くではなく

足元やその周囲でしょう。

 

立っているポイントをズラして見れば

見えなかった何かが見えるかもしれません。

 

また逆に

ずっと足元ばかり見てきたのなら

そろそろ遠くへと

視線を移すときなのかもしれません。

 

 

あなたが魂から必要とするもの

愛であるあなたにとって 求めるものが

今のあなたにとって

最適な形で

最適なタイミングで見つかりますように。

 

わたし自身そう信じて

またこれからも

楽しく軽やかに

進んでいきます。