飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

身近な人を亡くして⑧ 実家の片付け

前回の記事はコチラ

cocokara2018.hatenablog.com

 

ご無沙汰しております。

 

実家には築年数分の様々なものが眠っていました。

 

これ いつからあるの?

 

これ 一体だれが使うの?

 

そういう気持ちがため息となって

「はぁ~」と外へ出ていく。

 

実家の片付けを始めたばかりの頃

自覚する程度に ため息が増えました。

 

作業中も

帰ってからも。

 

「はぁ~」というため息をつく度

うんざりした気持ちでいっぱいになって

これはマズイと思ったものです。

 

埃をかぶり

変色し

触った途端ポロポロと崩れてしまうものや

反対に

まるで昨日買ったばかりのような未使用品。

 

保存状態が悪く

カビだらけになっているものも。

 

住み始めた時から

それも家族の人数分だけ

何層にも積み重ねられた物には

なにかが漂っている、ような気さえする。

 

今も母が住まう実家の片付けは

当初 ひたすら「呆れる」ばかりでした。

 

なぜ 捨てないのか?

 

なぜ そこに「そんなもの」が

当然のようにあるのか?

 

一体 何袋のゴミ袋を出したら

この作業は終わるのか。

 

そもそも 本当にこの作業は終わるのか。

 

燃えるもの リサイクル

到底 燃えそうにもないもの

全てが見事に混載された残置物の山。

 

「汗水垂らしての片付け」は

文字通り汗水の量と共に

疲労と「疑問」が確実に蓄積されることを

生まれて初めて知りました。

 

なんで???

 

どうして?!

 

無駄なのに

つい そう吠えずにはいられない。

 

ちなみに

「なんで? どうして?!」と問う度に

フラストレーションが溜まるだけで

誰も得しないと途中で気づいて

無理にも止めました。

 

片付けの最中は

「無心で ただ手を動かすだけ」

 

「ここに空間を作る」

 

「ここの空間を取り戻す」

 

そのためには

「まずは 決めた場所から

 他のスペースに 全部出す」

 

物の仕分けは後回し。

 

出す場所がないなら

まずは

「出せるスペースを作る」

 

うちはこの

「出せるスペースを作る」から

始めなくちゃいけなかった。

 

だから余計 

最初は精神的にしんどかった。

 

あとは

ひたすら体を動かす「だけ」。

 

移動させる時

発掘している時は

考えない。

 

とにかくひたすら出す。

 

移動することに集中。

 

そうでもないと

手に取るものは

思い出があったらあったで

「懐かしい!」と歓声を上げ

無かったらなかったで

「何これ 誰が使うの こんなの」と

文句を言う羽目になります。

 

それだけでもエネルギー

及び時間の無駄使い。

 

大量の残置物の場合

省エネがカギです。

 

全て 無心で。

 

そういう意味で

開封 とか

書物やアルバムを開く とか

そういうことは

全部後回し。

 

これが鉄則。

 

全部出し切ったら

そこからやっと

頭を「ちょっとだけ」使って

分別を始める。

 

この時 結構重要なのは

そこに長年住んでいることと

そこの「制度に精通している」ことは別物

という視点が必要 ということでした。

 

例えば 母の場合

長らく住んでいる地域ながら

資源ごみの回収は

毎月1回の収集日のみ

と思い込んでいたのです。

 

しかし

よくよく調べてみれば

指定された近隣スーパーなどで

毎週 資源ごみ回収がやっていたりします。

 

うちの場合

日曜大工が好きだったので釘や

他にもやたらと鍋類が多かったのですが

資源ごみとして

金属類の回収があったため

何度も資源ごみを出しに行きました。

 

ほんと 助かった。

 

あとは

衣類やタオル・毛布なども

多くなりがちではないでしょうか。

 

新品同様の箱入りならともかく

黄ばんだ使用済の古い下着やら靴下やらが

なぜか当たり前の如く

タンスの中に眠っていたりする

「実家の不思議」。

 

アレはなんなんですかね。

 

本当にナゾ。

 

こうしたものも

月1回の収集では

どうみても足りなかっただろうなぁ。

 

ということで

「大型の片付け」の時は

自分や家族が「知っていること」は

一旦横に置いて

まずは「調べ」ましょう。

 

特に離れて暮らしている場合

市や町の分別方法だけでなく

収拾方法や場所 曜日など

角度を変えて確認しなおしてみると

本当にナイスな情報があったりしますので

必ずチェックしてみてください。

 

それから

混載の山を分別しても 間に合います。

 

ここでチラっと思うのが

移動させる時 

先にある程度

「出した先で分けて置く」ほうが

効率がいいのでは?

ということです。

 

これはある程度 人数がいて

時間にゆとりがある人は

ぜひそうしてください。

 

少人数で(ヘタをすれば一人で)

短時間に

狭いスペースでやろうと思うと

「置き場は混載でよし」

くらいの「雑さ」があった方が

結果として作業は単純化し

長続きしやすかったように思います。

 

ただし

複数人 動ける人がいるなら

どんなルールであれ

明文化して

全員で共有しておくのが必須。

 

でないと「揉める」のは

時間がもったいない。

 

ただし 一人で持ち上げられない

重いもの 大型家具などは

複数人いても 一旦放置。

 

どちらにしても

粗大ごみか

人に譲るか

行けるなら 売りに行くので

今現在やるべきことからは

「外れて」います。

 

なので 大型家具は一旦放置。

 

後日 話し合って

適切な方法で出しましょう。

 

最初から「別でやる」と決めておけば

全体の流れを止める必要も減ります。

 

その分 家具のひきだしは

それごと出して 中身は全部出す。

 

後日 家具を売るつもりがなければ

「木製ひきだし」や

「プラ引き出し」は

週ごとのゴミ出しに出せる地域もあります。

 

うちの場合

引き出しごと抜いて

混載の山に投入。

 

そのほうが

細かいものを運ぶのに手っ取り早いので。

 

古い家は

棚の上とか

吊り天上とか

小柄の人が椅子に乗ったくらいじゃ

手の届かない場所も多々。

 

女性も男性も

片付けの際には

アルミ製の軽い脚立があると

本当に便利ですよ。

 

ちなみに

「移動→分別」

この組み合わせは

「小さな空間毎で繰り返す」のが

おススメです。

 

出せるスペースが広い場合

「一部屋毎」でも

できるとは思います。

 

ただし 

部屋が8畳より広い場合

たとえば

大きなリビングがあるなら

「一部屋毎」よりも

「片隅毎」くらいのほうが

気がラクだし

実感や達成感も

感じやすかったです。

 

何より「休憩」を入れるペースも

結構重要。

 

まとめて早く!

と気が急いてしまうと

何かとぶっ通しでやり切りたくなるものですが。

 

慣れないことですから。

 

ちゃんとしっかり座って

休むことも

「長続きさせる」には大切。

 

そういう意味でも

「六畳間をワンセット」の単位として

座って休憩しつつ分別は

ちょうどいいかなと思いました。

 

暑い時期は

もっと早く

もっと小まめに

水分補給と

座って休憩です。

 

特に

引き出しの多い部屋は

それだけ物が多くなります。

 

多いということは

混載レベルも高い

ということです。

 

ですから

部屋の大きさによって

空間を区切って考えると

気がラクかな と思います。

 

分別は分別で

相当 時間がかかります。

 

燃える 資源 とかだけではなく

個人情報の処理。

 

税金の納付書など

自治体などからくる公的書類や

年賀状などの手紙類は

一旦 全部中身をザクっと見て

個人情報の部分は細かく切る。

 

これだけで

「段ボール何箱分あんの?」のレベル。

 

そこに追加して

あちこちから出てくるのが

写真。

 

昭和くらいからなんでしょうか。

 

とにかく写真は多かったです。

 

若かりし日のもの。

 

結婚して

家族が増えて。

 

そういう年月分だけ。

 

年代を感じますね。

 

父のものですから。

 

時には「大人なお写真集」やら

かつての「イイ人かな」という女性も

発掘されてしまうわけで。

 

母が見つけると

居ない人相手に また一悶着始まります。

 

こんな時に

無駄なエネルギー消費は

ぜひとも避けたい。

 

ということで

そういうものだけは

そもそも移動させずに

見つけ次第 さっさと「燃えるゴミ」。

 

それ以外にも

「懐かしの写真」には

「かつての自分」も当然いるわけで。

 

偶然か

うちの場合

アルバム発掘は最後の方だったので

母と二人 並んで

時間かけてやりました。

 

捨ててからででは遅いものも

中にはあります。

 

自分の写真

特に生まれたばかりとか

幼いころのものは

割と時間かけて選別しました。

 

大半はその時点で捨てて。

 

選別したのを

また後でスマホで撮って

また捨てて。

 

デジタルで見れたら

十分なのがほとんどですね。

 

ほんの数枚だけ

手元に残しました。

 

これが わたしの導き出した

「長期戦の片付けを穏やかに続けるコツ」です。

 

ご参考までに。

 

今回

市のごみ収集担当の皆さんには

本当にお世話になりました。

 

ありがとうございました。

 

実家の片付け記事などで

「廃棄物 〇トン」というのを読むと

「トンは無いよね~」

と思ったものですが

いや あれはあったかもしれない。

 

 

ただ ここへきて

自分の来し方に疑問が湧いてしまいました。

 

つまるところ

「老いた母へのリスペクト」が不足している気がする。

 

母は自己判断はもちろん

多少時間はかかるけれど

体もよく動く。

 

時間をかけさえすれば

〇トンに近かった残置物処理も

母の持ち前のコツコツ精神で

一人で最後までできたかもしれないのです。

 

でもわたしは

それを「黙って待つ」ことも

見守ることもできなかった。

 

あまりの量に。

 

怖くて

本当に終わるのか不安で。

 

しかもそれを

老いた母が 乱暴なやり方で

無理に下ろしたり 壊して片付けようと

奮闘しているのが

どうにも不安で 忍びなくて。

 

一人でやってしまって

怪我をするんじゃないか。

 

そう思う度に

急がなきゃ

わたしが がんばんなきゃと

自分に可能な限りのスピードで

ひたすら片付けて。

 

母もそれを

「ありがとう」

「助かった」

と言ってくれたから。

 

当初こそ

本当にやっても やっても終わらない。

 

全然先の見えなかった片付けが

それでも途中からは

ちょっとだけ変わってきた。

 

やっただけ

ささやかでも「手応え」のあるものに変わっていった。

 

そして ある日を堺に 

見る見る減るようになった。

 

そうすると勢いがついて

ますます 「先へ 先へ」と

意識が向いて。

 

次はこっち。

 

こっちが終われば あっちと

手をつけた。

 

同じ頃から

まだ使えそうなものは「売る」ことも

考えられる余裕がやっと生まれた。

 

たった数百円でも

捨てるよりずっとよかった。

 

誰がどうみても 使えるものでも

今の実家では「不要品」。

 

終わりが見えなかったころは

そうしたものもゴミ袋に詰めて

道に並べたけれど

どこか気が咎めた。

 

もったいない。

 

そう思っても

それ以上に 量をさばくことがまずは優先で

だから とにかく「ゴミで出す」ことが最優先。

 

そんな気持ちを

少しでも晴らしたくて

こんなことになるとは思わなかった

小さな自分の車で

何度も 何度も お店へ運んで

売りに行くようにもなりました。

 

ゴミ出しにしろ

売りに行くにしろ

自分の人生で

「軽トラックが欲しい!」と

切実に思う日が来るなんて

夢にも思わなかったなぁ。

 

例え金額が付かなくても

引き取ってもらえるだけでよかった。

 

本当にありがたかったんですよ。

 

そう思うと

余計 片付けを張り切ってしまった。

 

時には思いもよらない金額に

大喜びすることもあって

それもうれしかった。

 

母は

「あんたが一生懸命やってるから

ごほうびもらえたねぇ」と

喜んでくれて。

 

片付いて

こんなふうにいいこともあって

だから余計 やってしまった。

 

こうして書いてみると

俯瞰してみることができる。

 

これはあれだ。

 

「コントロールしたい!」

ってやつだ。

 

自分の思う通りにしたい。

 

思った通りに進めたい!

 

そこに追加で

「善意・好意なんだから受け取られて当然!

 感謝されて当然!」

が加わってしまってるんだな。

 

黙って見守ることは

これは 究極の信頼。

 

自分のことに集中して

他の人のことは

すべてその人に任せる。

 

すべての経験に

等価の価値があるのであって

それを勝手に

「いい・わるい」と区別しているのは

「経験そのものの価値を無視している」

とも言える気がしました。

 

母の自尊心を傷つけたのではと。

 

できない・危ないと

決めつけて

やりすぎたのではないかと

思ったんです。

 

それで後日 謝りました。

 

母はケロっとしたもので

「何も気にしとらん」と

言ってくれましたが。

 

これは気をつけようと思いました。

 

 

 

 

星の数とパラレル・ワールド

夜空を見上げて

見える星の数が片手ですむくらいでも

 

それが「オリオン座」とか わかると

やはりなんとなくうれしいもんです。

 

そのせいでしょうか

冬と それ以外の季節では

夜空を見上げる回数が違うかもと

最近 ふと気がつきました。

 

気温が上がるほど

夜空を見上げなくなるのは

湿度で星がかすんで

まるで 星が減ってしまったように見えるから

かなぁ。

 

でも

最近は そんなことは気にせずに

見上げるようになりました。

 

なぜなら

星の数と

自分のパラレルワールドの数が

一致してるんじゃない?!と

思ってしまったからです。

 

 

6月に入る頃からでしょうか

台風のこともあり

いつも以上に

天気予報を気にされる方も増えるように

思います。

 

身近な情報である天気予報。

 

子どもの頃から

大人になってからも

大事なイベント前には

何度も何度もチェックしたものですよ。

 

統計や技術 特にAIの成長のお蔭で

ずっと的中率が上がったと言われていますね。

 

しかし 一方で

晴れといいながら 曇っていたり

雨といいつつ 晴れ間がのぞいたりすることも

決して少なくはないわけで。

 

 

数字を使った様々な方法から導き出される予報は

いわゆる科学の堆積ともいえますが

実際 その日 その場所の空模様は

科学とはまた異なる「なにか」。

 

 

では その差異って

どこからくるのでしょう。

 

 

それが冒頭に触れた

夜空に浮かぶ星の数

パラレルワールドの数ではないかなぁと

思うのです。

 

1秒先の未来の可能性は

きっとある程度絞られてくるのでしょう。

 

そういう意味では

都会の夜空に浮かぶ星の数程度に

パラレルワールド

行き先の数も限られるのが自然かなと思うのです。

 

今 この瞬間

東京にいる人が 1秒後 どこにいるか。

 

物理的なことだけでいえば

ある程度 限られるものです。

 

でも 精神的なことならば

その果てはありません。

 

その人が心の内で

どこへ向かうのかは

だれにも 制限できるものではないからです。

 

その人が描くのなら

月旅行どころか

遥か遠く離れた 銀河系さえも

向かうことができるでしょう。

 

そして

それを羅針盤にして

行動に移すのなら

その可能性の数は

比例して増えて行ってもおかしくはありません。

 

その人には

新たに目指したものの数だけ

常に選択肢が増え続けますし

同時にそこには

「止めた」場合の選択肢も

ぶら下がり続けます。

 

こうなると

その可能性の数は

灯りのない場所で見上げる 夜空の星の数ほども。

 

 

見えないものを 無いものとして

取り扱うのなら

きっと誰の人生も

天気予報より 遥かに低い精度で

十二分に的中させることができるはずです。

 

けれど

誰の人生も

一瞬 一瞬 選び取るたびに

直前まで見えなかった選択肢が

新たに現れては また選んで

その度に 思いもよらない出会いや

出来事に彩られ

いま ここに生きている。

 

ほんの一年前の自分ですら

今 この瞬間の自分を正確に予想することは

できませんでした。

 

できなくて いいんだなぁと

思うんです。

 

 

一秒ごとの

ほんのささいな気まぐれ。

 

好意や善意。

 

ちょっとしたアクシデント。

 

わだかまりや後悔

 

明確な敵意でさえも

やっぱり予想などできなくて

 

けれども 同時に

自分の選び取ったなにかに引き寄せられて

今 この瞬間 それが目の前に

「意識の中にある」のだと

否が応でも痛感せざるを得ない瞬間を

何度でも味わうと

「巻き込まれた結果の世界」ではなく

「自分が選び取ってきた結果の世界」なんだと

わかってしまうことは

清々しく。

 

自由を求めて

自由を選ぶたびに

切り捨てた何かが離れていくと

どうしようもなく心細くなります。

 

でも できないアレコレが

他の人が受け容れていることを

受け容れられない自分が

日に日に 輪郭がハッキリしてくるたびに

「これが わたし」なんだなと

思わざるをえない。

 

少なくとも

10代のわたしに

今のわたしを予想する能力はありませんでした。

 

削って 削って

削り取った後

どうにもできずに残ったもの。

 

ふわふわとした かたまりの

芯の部分が わたしでした。

 

 

今 どんな場所に立っていても

お日様の光も

大空から降ってくる雨粒も

とめどなく吹く風も

そして

夜空を埋め尽くすような星も

地球上に住む限り

等しく 与えられる存在です。

 

 

未来とは

幾億千万とあるのだと

見上げた星に教わることができる。

 

こんなにたくさんの可能性が

自分の未来にあると

目で見て 感じ取れる。

 

そう思って見上げた夜の星の数が

少なかったとしても

見えない星の存在までも感じとろうとするだけで

随分と違ってくるものです。

 

空気がそこにある と信じて

呼吸するわけではありません。

 

もう 呼吸している。

 

それが生きている ということ。

 

パラレルワールドも

そうかもしれません。

 

 

提示された未来。

 

それ以外にも

提示されようのない未来が

幾億千万とある。

 

どこに視線を向けるのか。

 

どこまで

視線の中に

意識の中に 容れるのか。

 

意識の中に容れたことで

変わるものがあると

自分から 感じ取ろうとするか。

 

意識の先を

リラックスしながら

自分にとって 明るい方へ

光を感じる方へ

自然と向けられるか。

 

スッと ただつながって

合わせる。

 

そう ただ いつの日も

パラレルを歩き 渡る。

 

すべての人が

パラレル・ウォーカーだそうですよ。

 

身近な人を亡くして⑦ 四十九日の法要 納骨 年忌供養のタイミング

前回までの内容はコチラから。

 

cocokara2018.hatenablog.com

 

 

 

先日 すこし早い父の一周忌を

恙なく執り行うことができました。

 

この一年はあっという間で

喪失感というものも

薄れつつあります。

 

ただ 実家に「いた」人が「いない」ことで

母の生活にいままでより多く関わるようになり

それが自分の生活を

時にはキュッとさせてしまうこともあって

そういうことも含め 変化の多い一年でした。

 

そんな中でちょっと思ったことが

「納骨のタイミング」です。

 

父の遺骨は

四十九日の法要と同じ日に「納骨」しました。

 

菩提寺から事前に提示されていたことが

大きな決定打でしたが

いま思うと

そういうことが無かった場合

つまり

菩提寺がなかったり

そもそもお墓の用意をしていなかったり

そういう場合

あるいは現在その渦中の方にとって

何か参考になるかもと

実体験をシェアしてみたいと思います。

 

 

「死者は死後49日間 この世界にとどまるもの」

という仏教観と相まってでしょうか

現代日本においては

お墓が有ろうと無かろうと

火葬後 遺骨は遺族が持ち帰るのが一般的です。

 

多くの場合

遺族によって自宅に持ち帰られた遺骨は

一定期間 自宅で安置した後

なにがしかの形で墓地や

希望していた宗教施設で合祀 納骨されることがほとんどですが

一方で「納骨のタイミング」については

各家庭に任されているのが現状です。

 

さて お墓と言う場所は

身内がそこで眠っていても いなくても

「たのしい場所」という感じは

あまりしません。

 

そこには死者の遺骨があり

そのことを感覚的に多くの人は感じ取るため

不動産などでも墓地の隣接地は

付近の相場よりも根下げされる傾向が大きいといえますし

夕方以降ともなれば

街灯があろうとなかろうと

お墓の近くをわざわざ通りたい人は

そう多くはないと思うのです。

 

墓地の特有な感覚は

単純に人気が無いことによる「寂しさ」もありますが

そこに加えて「なんとなく不穏」なわけです。

 

その理由の大半が

実は「遺骨」の持つ特有な気配に由来しているのだなぁと

このたび 実感しました。

 

 

 

 

納骨の際 父の遺骨を

わたしが実家から持ち出したのですが

途中 置き場所がなく

ヒザの上?に乗せる瞬間があったのです。

 

「これは」

と顔をしかめたくなるものでした。

 

大雑把にいえば

違和感というか

知らずに置かれたら

パッと手を払ってしまいたくなる

そういう感じのものでした。

 

いわゆる「いる」感じが

これ以上なくビビットに感じられたためです。

 

わたしは「見える 聞こえる」

ということはないのですが

それでも場所から放たれる「気配」みたいなものは

少なくない人が感じ取れるのではないでしょうか。

 

わたしの場合

常日頃から意識して 大好きな「神様仏様」という

高次の存在にアンテナを合わせるよう

意識してそちらへ向けるようにしています。

 

お蔭さまで

神社の清浄な雰囲気に癒されたり

ドシっとした重量感のある雰囲気に

気が引き締まる思いをしたり

「このようなメッセージを受けているかも」とホクホクしたり

日々 少しずつですが

感度が上がっている感じはしており

その都度 励まされたり 

がんばろう!と思ったりしております。

 

もともとは鈍いタイプでしたから

これは一重に

「高次の存在」に向けてアンテナを

意識して磨いてきた途中経過であって

そうではない存在については

一向に鈍いまま 不明なままです。

 

いろいろな考え 意見が有るかと思いますが

アンテナの方向性というのは意識と連動するそうですから

自分から意識して

「神様 仏様」へと安定を向けていると

他のものは拾いにくくなるらしいのです。

 

これもよく聞く話ですが

感度というのは

ラジオのチューナーと同じ原理だとか。

 

そういった意味でも

鈍い あるいはまったく不明でいいのです。

 

そんなわたしであっても

さすがに「遺骨」の感じは如何ともしがたい

ということがハッキリとわかりました。

 

実の父ですら

そう思うのです。

 

そして それはなんというか

生身の人に対する愛着とは

まったく別物の感覚でした。

 

これは生きている人の生活範囲とは

明確に距離を置くものだ

と肌身で感じました。

 

では 持ち出すまでの49日間

実家で安置されていた時はどうだったのか

といいますと

そこまで大きな違和感は感じませんでした。

 

父が亡くなった後は

手続きなど

とにかく怒涛の49日間でしたから

正直なところ

仏壇前の「遺骨の気配」など

構っていられなかっただけ

ともいえます。

 

必ず手を合わせてはいても

しっかりじっくりとは

いきませんでしたので。

 

なんとなく「いるかな」と

感じることもありましたが

ほとんどはさっぱりです。

 

ただ 声に出して話しかけると

応える声が結構クリアに脳内に浮かんだりはしましたので

なんとなく いけるのかもしれませんが

その時も「不穏」な感じは一切しませんでした。

 

これがいわゆる

「49日の間」現象で

その間だから平気だったのかなと

勝手に思っています。

 

もし それを過ぎてなお

自宅に遺骨がある場合

どうなのか。

 

わたしにはわかりませんが

こうした経験から

今後 わたしが取り仕切れる限りにおいては

仏教の四十九日の法要に併せて

納骨を行うつもりです。

 

これは母の言葉ですが

「遺骨があると それに引っ張られる」

 

亡き人との関係性によらず

母の言いたいことというのは

家内の雰囲気が停滞する

もしくはそこに住む人の精神に

好ましくない影響が出やすい

ということのようです。

 

それほど「遺骨」というのは

持ち続けることで

思わぬほうに存在感を放ってしまうものだ

というような意味合いでした。

 

そしてこれは

敬愛する桜井識子さんが

著書「魔の避け方 追い祓い方」

「魔」の避けかた 追い祓いかた | 桜井 識子 |本 | 通販 | Amazon

 

こちらの書籍で

冒頭から

識子さんの実父が亡くなられた際の

納骨までの出来事に言及されているのですが

そこでもやはり

「納骨については四十九日の法要後

 すみやかに行う」ことを

おすすめされていました。

 

それはとりもなおさず

亡くなられたご本人のため

残されたご遺族の体調や健康のため

というものでした。

 

また これは識子さんのブログでの発言ですが

四十九日の法要の日取りについて

「三カ月にまたがない方がいい」らしいのです。

 

月の後半で亡くなった場合

きっちり四十九日でカウントすれば

カレンダーの上では

3カ月またぐことになります。

 

これは好ましくない らしいのです。

 

詳しい理由は明記されていませんでしたが

その場合 多少早くても前倒しして

カレンダーの上で

二か月目の月末までに

四十九日の法要を執り行ったほうがいい

とのことでした。

 

少し異なる理由かもしれませんが

命日の「年忌供養」についても

「必ず 当日より遅れることのないように」

と識子さん言及されています。

 

年忌供養は命日が基本。

 

けれども

遺族のスケジュールありきのことですから

命日が平日 あるいは行事シーズンであれば

当日行うことが難しいことはいくらでもあります。

 

そうした時には「前倒しで」

ということのようですね。

 

ちなみに

実家の菩提寺の住職さんも

年忌供養については

同じようなことを言われてましたので

一般的な考え方なのかもしれません。

 

今日は敬愛する桜井識子さんの

啓発回のようになってしまいました。

 

この人はこう思ってるのね~

くらいで読み進めていただけますと幸いです。

 

死とその後の手続きや法要は

やり直しが効かないことが多く

それにも関わらず

重要だったりするので

当事者は日々ストレスが大きくなりがちです。

 

ですから

ささやかではありますが

どなたかの参考くらいにはなればと思い記しました。

 

読み苦しい点がありましたら

生ぬるい目で読み流してください。

三日坊主のわたしへ 今のわたしからのエール

スピリチュアルなこと

精神世界のことに興味を持つようになって

早いもので10年が過ぎました。

 

それまでのわたしは

見えないものは想像の中だけか

あるいは

もし本当にあったら

それは得体のしれない怪しい存在

という価値観でした。

 

それがなぜ急に変わったのか。

 

生命を

自分の子どもという生命を

求めたのがきっかけです。

 

不妊治療をしました。

 

でもすぐに思い至るのです。

 

こんなことを

「人間の手」「科学」だけで

できるわけがない。

 

これは「人間の領分を超えた」ことだ。

 

そう思いました。

 

そこで思い立ったんです。

 

これはあれだ。

 

「神様仏様の領分」だ、と。

 

目に見えない存在の力なくして

成り立たないことが

この世界には確かにあると

強く感じました。

 

医療が日々進み

IT技術なんて秒単位で進化しているらしい

そういう現代世界でも

やっぱりそういう

物質世界からだけでは至らない

未知の領域がほとんどなんじゃないかと

今はなおさら強く思っています。

 

ただ 一方でね

こういう表現にも

ぶち当たったりするんです。

 

「知ってるだけ」じゃ意味がないんだ。

 

知ったことを

毎日の中で活かしてないなら

知らないのと変わらない。

 

そう言われれば

耳が痛いわけです。

 

確かにね。

 

知ってるだけで

情報収集だけでね

満足しちゃってるかも。

 

たしかに。

 

ただ

そのまた一方でね

こういう言葉にも出会うんですよ。

 

「それが ”種をもらう” ってことなんだよ」

 

もらった種をどうするかは

その人の自由で

もらっても

すぐ捨てちゃうのも

なんとなくポケットにいれて

すっかり忘れちゃうのも

しげしげと眺めて

試しに植えてみるのも

その人の自由なんだけど

でもまずは

「種をもらうことが重要なんだ」

という考え方に出会ってしまうと

「それもそうか」

とわたしなんかは納得してしまうんですね。

 

手放す とか

体にいい食事とはなんぞや とか

意識を向ける先を意識する とか

いろいろ知るわけです。

 

知るけれども

今この瞬間のわたしは

そうした知識をフル活用なんて

まだまだ。

 

でも知っているから

ふと思い出した時に

チョロっとでもやってみたりする。

 

で また朝起きたら忘れてて

それでまたしばらく忘れたままで

ふとある日

「あ そうだった」

て思い出して。

 

それでまたやってみるわけです。

 

チョロっとね。

 

それでまた忘れる と。

 

我ながら

どんだけ忘れっぽいんだと思いますが

何十年と続けてきた習慣とか

考えグセとかですから

気を抜いてたら

そうなるのも無理はない。

 

無理はないのだけども

好きだから

スピリチュアルな記事を読んでは

「は!」として

また始めてみて。

 

こんなことの繰り返しなんです。

 

そういうなんというか

ダラダラ~とした姿勢ではね

「間に合いませんよ」とか

書いてあるのをみると

落ち込んだり

「もういいや~」て

投げ出したりして。

 

でも「好きだから」

諦めきれないんですよね。

 

それで

「とにかくやるか」て

また 始めるんです。

 

いいわけじゃないんですけど

たぶん

多少は「芽吹いてる」んだと

思うんですよ

こんなでも。

 

合格ラインってのがあったとして

それにはまだまだかもしれないですけど

でもゼロ地点でもないんじゃないかと

思っているんです。

 

なぜかっていうと

「好きだから」です。

 

目に見えなくて

だから全然自信とか実感もなくて

わたしの場合は

わかちあうお友達とかも

いまはいないから

ひたすらコツコツ自分の世界だけでね。

 

それでも「好き」だと

そういうことを知ったり

触れたりするのが

楽しいし

ワクワクするし

そうだったらうれしいなって

思うから。

 

知ってるだけじゃ意味がない。

 

そのとおりかもしれないけど

一概には否定できないというか

知識の総量が「一程度超えた時」に起きる

「やらなくちゃ」という

あの感じは

それはそれで「ゼロ」ラインよりは

成長している兆しだと

わたしは思っています。

 

未来への希望を込めて。

 

3日坊主でも いいじゃないの。

 

また始めたら

それでいいんだってば。

 

くじけても

放り出しても

また拾い上げて

もう一回って思う

その気持ちを大事にしていこう。

仏さまを感じられる 張り詰めた時には「護摩祈祷」に参加してみませんか?

今回は短い記事を。

 

 

 

もし お近くのお寺で

毎日

あるいは月に数回

「護摩祈祷」が行われているなら

一度参加されてみるといいかもしれません。

 

 

 

探すときの目印としておすすめなのは

「お不動さん」です。

 

 

 

お不動さんの護摩祈祷では

「複数人のお坊さん」の生の読経の中

護摩を焚き 祈祷が行われることが

多いように見受けます。

 

 

 

仏弟子であるお坊さんの

生の読経という「音」と

護摩の炎に満ちた空間はとても特殊です。

 

 

 

平常時のお寺とは「別物」と思って

差し支えありません。

 

 

 

わたしの体感ですが

「生の読経」と「護摩の火」によって

「救う対象」である我々「衆生」と

護摩を焚かれている「仏様」との距離感を

グッと近くしてくれる

あるいは 埋めてくれる感じがしますし

その「仏様の存在感」を

平常時よりもグッと濃く

体感しやすくなっている気がするからです。

 

 

わたしは神仏が好きで

日々 神仏のわかる能力が上がるよう

あちこちへとお参りにいくのですが

成長途中の段階ですから

お寺に行っても

仏様が奥の厨子に入っている

あるいは

お堂が開いておらず近くに寄れないと

どんなに素晴らしい仏様でも

「仏様」を感じ取りにくいことがあります。

 

 

 

ですが

少々仏様が遠くても

護摩祈祷に参加さえできれば

仏様との距離感を

「一気に取り去って」もらえるのです。

 

 

護摩祈祷が終わった途端

部屋の中を圧していた「何か」が

ふっと消えることも

感じられるのではないかと思います。

 

 

ということで

今回は「護摩祈祷」について

おすすめしました。

 

 

若い方を中心に

多くの人が「新たなスタート」を

日々感じられる季節です。

 

 

 

緊張感も

時にはいいものですが

それもまた過ぎれば

違う作用が出ることも。

 

 

そんな時にはぜひ

心をフワっとゆるめて

のんびりと お花見や

お近くの神社やお寺へお参りなど

してみてはいかがでしょうか?

 

 

 

いつもとは違った感覚を得ることで

本来のご自身へと立ち戻りやすくなりますし

そうすることで

自分本来のペースや在り方に繋がるのでは?

と思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

身近な人をなくして⑥ 死後のアレコレ

前回までのお話はコチラから。

 

 

cocokara2018.hatenablog.com

 

この後

怒涛のような事務処理手続きになるのですが

ケース・バイ・ケースのこともありますので

ここではあまり詳細には触れませんが

「事前にしっていてよかった」と思ったことだけを

あげてみます。

 

① 死後の役所手続きは「事前確認が肝」

 

簡略してお伝えしますと

死後の「死亡届」を役所に提出した後

父の住まう管轄役所では

「各種手続きは

 ”1週間程あけて”から来るように」

とのことでした。

 

というのは死亡届を反映させるのに

所内で時間が必要なようです。

 

ですが

手続き上「10日以内に届け出を」

というものもありますから

きっかり1週間後には

役所へ行くのがベストかなぁと

思いました。

 

ただし

役所へ行く際には

「必要な持ち物」があります。

 

亡くなった人の

各種保険証や

自治体から発行されている証明書など 

これら「返却物」も持参する必要があります。

 

今回お世話になった役所には

「死後手続きの専用窓口」があることも

事前に知ることができたのですが

こちらも「事前予約が必要」でした。

 

「返却物」なども含め

亡くなられた方がお住まいだった地区の

役所ホームページか

総合窓口に電話して

事前確認をしてみるのが確実です。

 

ただ 専用窓口であっても

実質の手続きは一般の方と変わりません。

 

手続き自体は

1つ1つ別の窓口へ自分で並びます。

 

特に戸籍や住民票の窓口は

待つ人も多い印象でした。

 

ただ 個別の申請書は

名前などパソコンで打ったものを持たせてくれること

また

どこの窓口を回らなくてはならないのか

事前にまとめてアナウンスしてくれること

最後に

「死後に必要な手続きについて」

という冊子を一冊いただけること

これらが専用窓口での特典です。

 

それだけといえばそれだけなのですが

急なことで

頭がうまく回らない家族にとっては

やはり助かりました。

 

特に高齢の方が 一人でこれをしようと考えれば

どうしても必要です。

 

戸籍や住民票の変更

それらを反映させた戸籍謄本などの取得

社会保険と介護保険の終了など

あちらこちらの窓口を

次はこっち 次はあっちと

数時間かけて周りました。

 

だからこそ

一回の時間を無駄にせず

事前に書籍などで必要なことを確認し

役所で取得する書類は

一回でまとめて取れるようにしておくと

後で気が楽です。

 

「役所で全部教えれくれるだろう」

と思われるかもしれませんが

そうでもありません。

 

管轄が違うことは「知りません」し

知らないため

「説明に出てくること」もありません。

 

今回の役所では

「必要な手続きについて」という

冊子をもらいました。

 

こちらには

他にも年金の連絡先や

ごみ処分の時の連絡先

自動車や不動産の名義などについての連絡先など

一覧があったため

本当に助かりましたが

他の役所がどうかはわかりません。

 

そうなると

やはり市販されている書籍を見て

確認するのがベストだと思ったのです。

 

こうした書籍は図書館にもありますから

お時間のあるときに

書架の場所だけでも確認されるといいかと思います。

 

 

特に今後 他の手続きで必要になる

「父の死を反映させた」

戸籍謄本や住民票の取得は

一気にまとめてやっておきたいことでした。

 

人が亡くなると

その人の相続が発生するものですが

その場合

亡くなった人の「出生時から死亡時まで」の

戸籍謄本を全て揃える必要があります。

 

戸籍から「相続人の範囲」を絞り込むためです。

 

父の場合

引っ越しなどを含め

他府県への移動がなかったので

戸籍はシンプルなはずでしたが

高齢でその間の法律改定の影響から

複数の戸籍となり

出生時のものなどは「手書き」で

時代を感じました。

 

ちなみに

もし市外や他府県であったとしても

「広域交付制度」によって

1つの窓口から取り寄せることが

できるそうですから

必要な方は窓口の方にご相談ください。

 

②法定相続人の特定

 

日々の生活がささやかでも

そうでなくても

人が亡くなると「相続」の手続きが

出てきます。

 

理由はよくわかりませんが

そういうものらしいのです。

 

少なくとも

亡くなった人の銀行口座を触る必要があるなら

「相続人」である証明書が必要になります。

 

その時 役に立つのが

「法定相続一覧図」です。

 

これは

亡くなった人の

出生時から死亡時までの戸籍など

数種類の必要書類を集めて

法務局で作成と登録することでできる書類名です。

 

この書類を作っておくと

亡くなった人の銀行の解約など

「提出書類」が若干減ります。

 

これが無い場合

都度 すべての戸籍と

関係者の必要書類を持参することになります。

 

フォーマットは「法務局」のサイトにありますし

最寄りの法務局に「事前予約」すれば

記入に際してレクチャーも受けることができます。

 

行政書士など 専門家に依頼することも可能ですが

思ったより簡単なことですから

まずはネットで作成方法を確認してみるといいかなと思います。

 

③死後にも届く「社会保険料の支払い」

 

これは社会保険のシステム上

誰でもそうなるようなのですが

死んでからも2カ月分程

社会保険料の支払いがありました。

 

「え?なんかの間違い?」

と思いましたが

そうではなく。

 

そもそものシステム上

12カ月分を9カ月に分けて払うのが

社会保険料だそうで。

 

そのため死後も

支払が生じるものらしいのです。

 

そうでなくても

死んだ後

死んだ人の支払いが

あれやこれやと

何度も

何か月も

出てくるものです。

 

行き違い とかではなく

「正当な支払請求として」

やってきます。

 

こういうことは

どこにも書いてなかったなぁ

と思いました。

 

④「遺品」という名の処分品

 

毎年「断捨離」しても

まだ出てくるのが不思議なものですが。

 

高齢者の場合

「何十年分の断捨離」ですから。

 

このあたりは

価値観の違いといえばそれまでですが

家族がそれらを処分するとき

やはり切ないし

どうしても辛い気持ちにもなりますね。

 

だって 価値を知らないわけですから。

 

きっと大事だったでしょうに

家族にはその価値がわからないわけですよ。

 

「好きじゃない」から。

 

でもそれは家族が

悪いわけじゃないですよね?

 

ただ「好きじゃない」だけなんです。

 

だからまとめて「ごみ」です。

 

自分が好きで集めたものなら

「わかる人に」持ってもらったほうがいいだろうと

思うんですが。

 

遺品となると

もう「ピンもキリも」なく

いっしょくたで「ごみ」です。

 

コレクションにならない

生活用品だって

家族にしたら

「思い出の品」ですからね。

 

手にとれば

「思い出」が湧いて

なかなか進まない時もあります。

 

そういう意味で

自分のものを

自分のペースで処分する「断捨離」は

とっても大事なことだなぁと思いました。

 

 

cocokara2018.hatenablog.com

 

新年のご挨拶 2026年

新しい年がはじまりましたね。

 

わたしは自分でビックリするくらい

テレビとインスタで笑うお正月でした。

 

過去イチレベルで

笑って過ごしました。

 

忌中のため

明るい集まりは遠慮して

その分 自宅でのんびり

撮りためたバラエティ番組を見ては

笑って食べて。

 

気が向いたら

その辺までぷらぷらとお散歩して。

 

なんにもしない

ひたすらのんびりな時間を味わいました。

 

デジタル・デトックスも

いいなぁ とは思いつつ

真逆に振れて

デジタル全開のお正月。

 

そういう年もありかなと

思いました。

 

いままで行かなかったタイミングで

ひっそり初詣にも行きまして。

 

こんなに混んでるの?というくらい

道も混んでいて。

 

割と寒かったし

けっこう長時間 寒風に吹かれていたのですが

境内でいただいた甘酒のお蔭でしょうか

家に帰るまで

トイレに行きたくなることさえなかったのも

おもしろかったことの一つです。

 

あと とにかく食べました。

 

たぶん胃が小さくなってるので

そのせいもあるんでしょうが

とにかくずっとお腹いっぱいで。

 

朝昼晩と

お正月らしいような

そうでもないようなおかずを

結構な量で食べました。

 

おかずは年末に自分で作ったものも

買ってきたものもありますが

とても地味なものがほとんどで

そこに一日に一回くらい

「お!これは!!」という感じで

エビとか カニとかを入れてみて

「お正月感」を演出することも忘れません。

 

その自作の演出もうれしく

「お正月っていいよね~」と思ったものです。

 

みなさんは

どんな年越し 年明けをお過ごしでしょうか?

 

明日からいよいよ

仕事始めという方も多いかと思います。

 

わたしもそうです。

 

朝寝坊も今日までか~

と思うと

なんだか名残惜しい気もしますが

今日行ったスーパーの

もうきれいさっぱり「お正月感ゼロ!」の感じも

「それはそれでいいもんだ」

とも思いました。

 

このサクっとした感じが

素晴らしい。

 

古きを終え

新しきが始まり

それにさえ もう酔いも驚きもせず

ただ淡々と今を生きる。

 

何かが終わると言われ

「怯える」気持ちが湧いたりしていたけれども

本来はまるで必要ないことだったなぁ と

なんとなく思ったんです。

 

毎年年末に

「終える」感じを味わっていることに

ふと気がついて

その「清々しさ」と「愛おしさ」に

毎年 どこか安らいでいた自分がいました。

 

年末になることの

「無事に終えた」という安堵感は

何度も聞いてきた「分岐点」という言葉への

「未知に対する不安や恐れ」を

シュルシュルと溶かしてくれました。

 

あっけないほどに。

 

きっとみなさんにも届いているだろう

この感覚を

なんとなく確信した年明け。

 

今年も一年

こんな感じで

ゆるゆるっと綴って参ります。

 

どうぞよろしくお願いいたします。