飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

勇者の道も一歩から

秋が深まり

紅葉があちこちで彩りを添えてくれる

うれしい季節になりました。

 

ほんとうに うれしいなぁ。

 

イチョウの黄色 大好き。

 

モミジのグラデーションも。

 

名前を知らない草の

信じられないくらい美しい紅葉も。

 

どうやったら

あんなに美しいグラデーションを

思いつくんだろう。

 

宇宙は

地球は

本当に天才アーティストで

愛に溢れていて

その愛でもって

わたしたちに

さりげない贈り物を

毎日 毎日

あちこちで

溢れるくらい 与えてくれているんだなと

朝 お散歩をする道々でよく思います。

 

 

ちょっと前

わたしにしてはだいぶ長めの旅に

出ておりました。

 

面白かったし

まいにち幸せで

行ってよかったなぁと

つくづく思いました。

 

その分

すこしくたびれてしまったのか

この一週間ほどは

とにかく寝ても寝ても眠かったです。

 

それでいつもより長く

寝るようにしました。

 

同時に食欲も旺盛で

もしかしたら

単なる「食欲の秋」で

食べ疲れの眠気 というオチも

なくはないなぁ とも思います。

 

でも聞くところによると

なにかにシフトする時期には

眠気が強くなるともいうので

成長という意味での

シフトチェンジだったらうれしいな。

 

それも昨日あたりから

ようやく落ち着いたようです。

 

冬至までちょうど一月。

 

年末の大掃除に向けて

持ち物の点検はもちろんですが

内面の点検も

おさおさ おこたりなくしたい時期ですね。

 

どちらかというと

内面の点検の方が

重要な時期 だそうですよ。

 

わたしはといえば

どうにも自分の弱い面にでくわすと

つい自分に対して

「被害者意識で物事を見てしまうクセ」がありました。

 

これはずっと自分でも

引っかかっていたことで

ぜひとも手放そうと。

 

そういう時

つまり

自分の弱い面やきれいではない面に

出くわした時

 

今までのように

「ドラマに酔いたい人」は

酔ってしまってもいいそうですので

そこはお間違いないように。

 

ただ

「いやいや もう十分ドラマは味わったから

 被害者意識とか

 批評家意識とか

 そういうドラマから抜け出して

 ”新しいわたし”で生きようよ!」

と息巻く勇者さんは

 

ぜひ今の時期の波に乗って

新しい道を自分で選びとり

そのとおりに 毎日過ごす

毎日生きるといいですよね。

 

わたしも

「ドラマから抜け出して

 新しいわたしで生きよう!」と

ちゃっかり決意している一人なので

そのようにしております。

(結果はまだまだですが)

 

そんなわけで

「新しいわたしで生きよう!」

となったらば

 

「ドラマの入り口」ともいえる

弱い面 キレイとは言えない面に

出くわした時

 

被害者意識やら

批評家意識に

「は!」と「気づく」

 

これが勇者の第一歩。

 

では「二歩目は?」

というと

自分の内側に湧いてくる

「かなしい・くるしい」などを

「あぁ かなしいのねぇ」と

「外から眺める」

 

賛成もしないし

反対もしない。

 

批評も 批判もしない。

 

そのままを眺める。

 

景色を眺めるのと似ています。

 

海を見て ボーっとする。

 

空を見て ボーっとする。

 

アレです。

 

アレを

感情に対して やってみます。

 

こうすると

「内側から湧いた感情」

イコール

「自分の全て」

という今までの感覚から

ちょっとずつズレてきます。

 

例えるなら

部屋に「充満した湿度」は

「”部屋そのもの”ではない」ですよね。

 

不快だし

うっとうしいし

カビの原因にもなりますが

湿度は「乾燥させると無くなる」。

 

つまり

「部屋そのもの」とは

「別の存在」です。

 

そんな感じです。

 

「湿度」とは

そういうものだと

みんな知っているし

わかっていますから

対処方法も知っていますね。

 

窓を開けるなり

エアコンや除湿器で

乾燥させるなりしますよね。

 

感情も同じ。

 

自分ではないけれど

あたかも「自分そのもの」に思えるけど

本当は

自分の「内側に充満しているだけの”何か”」。

 

それが「感情」

あるいは「エゴ」です。

 

なので

「湿度」と同じように

「内側に湧いて充満している感情」に

必ずしも「浸らなくてはならない」

ということはありません。

 

自分で

どうするか

選んでいいんです。

 

「浸る」のか

 

「かなしい と思ってるのね」と

一歩距離を置くのか。

 

これは

「無理に笑顔になれ」とか

「カラ元気でいよう」とか

そういうことではなく

海を眺めるが如く

静かに眺めるのがポイントです。

 

応援しないし

ジャッジもしない。

 

背中を叩くことも

煽ることもしない。

 

ただ眺める。

 

静かに眺める。

 

「解釈しよう」と

頭を働す必要もない。

 

海や山を眺めるのに

解釈は必要なくて。

 

「味わう」と

北山さんはよく表現されますが

そういうことだと思います。

 

このことを知って

実感できると

「あれ? そうなの?」と

「何か」が外れた感じがします。

 

たぶんそれが

「気づき」なんだろうと思います。

 

こうして

「手放す機会」として使う。

 

ある出来事があって

そこで自分は

「さびしさ・かなしみ」を感じる。

 

でも 本当のところ

その「出来事そのもの」ではなく

「自分の中に

 その出来事に”共鳴する・響く”ものが有る」から

「さびしい・かなしい」という周波数が

自分の中で広がるだけ。

 

「共鳴する・響くものが無い」のなら

同じシーン

同じ待遇でも

「何も感じない・響かない」んですよね。

 

「場所を変えても

 形を変えても

 何度も何度も”同じ経験”を繰り返す理由」が

これなんだと 40代になって

ようやく知りました。

 

知っても

サクサク手放せるわけではないのですが

それでも

まずは理性で

「これは そういうことだ」と

”分別をつけられる”だけで

だいぶ違うなと思うんですよ。

 

相手が悪い。

 

環境が悪い。

 

そう思えば

あたかも「自分が少しは救われる気がしていた」。

 

でも

実際は違うんですね。

 

むしろ

そうした思考では

かえって深みにハマる一方。

 

相手の

あるいは周りの

動作や内容よりも

「それを自分が どう受けるか」のほうが

はるかに重要でした。

 

ここでポイントになるのが

「かなしい」とか

「キライ」とか

「思っちゃいけない」

ということではない!!!

ということです。

 

ここ とっても大切なポイントですので

しつこくお伝えしたいところです。

 

相手を「キライ」とか

環境を「かなしい」とか

思っている自分は

そのまま「感じて」いいんですって。

 

そう「感じた」時に

「わたしは そう感じるんだな」と

「”一歩引いた目線”で 感情を眺めること」。

 

この

「一歩引いた目線で”眺める”」ことこそが

「手放し」へと続く道なんですね。

 

手放すには

瞑想がいい という人もいますし

「手放すと決めて」

一定のしっくりくる動作を使って

「手放した感覚を味わう」でも

お好みの方法でいいようです。

 

そのあたりは

自分がシックリくるやり方を

実験してみるのがおすすめですよ。

 

たくさんの人が

色々良かれと記事やら

動画やら

アップしてくださる豊かな時代ですから

それを活用しちゃいましょう。

 

そして

本当にいい方法というのは

簡単で

やろうと思えば

誰にでもスグできて

たぶんお金も

あまりかからないと思うんですよ。

 

真の愛とは

そういうありふれていて

なおかつ地道で地味な方法だと

わたしは思います。

 

なので

瞑想もしますし

動作もしますし

神仏に相談もします。

 

今までは

「感情が湧いたら その渦中に自分を置くもの」

と疑いもせずに長らく生きてきました。

 

でも それはもう卒業です。

 

これからは

「感情が湧いたら 眺めるもの」と

心得えて

毎日を生きていきます。

 

そうすると

意外と冷静な自分から

ヒントなり

アドバイスなりが届いたりしますし

そうでなくても

気楽に過ごせるようにもなりますからね。

 

なかなかいいものです。

 

新しい地球。

 

新しいわたし。

 

未来は

今は

一瞬ごとのパラレル移動。

 

わたしは

この思想が大好きですし

そうだなって

ちょっとしたことで

感じられるようになってきました。

 

かなしいことがあって

それに溺れて「かなしみだらけの自分」で

いることもできるし

 

それはそれとして

「目の前の景色の中にある

 信じられないような自然の美しさに気づく自分」で

いることもできるわけです。

 

わたしは

いつでも後者でいます。

 

という宣言です。

 

「そう在る」と決めて

「そう在るわたし」がする選択を

「今のわたしがそう生きる」

 

これが極意だと

敬愛する北山裕子さんは

よく文字にされていますし

並木良和さんも

そのように言われます。

 

わたしもそう思っています。

 

今日を生きよう。

 

勇者らしく

胸を張って。

 

ルンルンと

空を見上げて。

 

ウキウキ

海に見とれつつ。

 

わたしは

わたしであることが

最大級のしあわせなんだから。

 

 

 

それではまた。