飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

自分と向き合う 魂の知りたいことや目標

この数日 自分と”向き合い”

感情を手放すことを続けてきました。

 

自分なりにリストアップしたものを

片っ端からどんどん手放します。

 

方法はいたってシンプルですが

その方法を知りたくて

講座を受けに行きました。

 

探したいものがあれば

サッと探せるなんて

本当にいい時代になりましたね~。

 

講座に行くこと自体

実は勇気が必要でした。

 

距離と金額とで

きっと今までのわたしなら

尻込みしていたことでしょう。

 

でももう 行くしかない!と思い

えいや!と飛び込んじゃいました♪

 

その講座で学んだことは

「今までも薄っすら気づき」ながら

どこかそれでいいのかと「疑問」になっていたことや

まるで知らなかったことを

初めての切り口で知らされ

眼からウロコの連続です。

 

お蔭でグッと前へ進めた感じがして

思い切ってよかったと思いましたし

今でもそう思っています。

 

その日から繰り返し

学んだことを実践しました。

 

まだほんの数日ですが

そうする中で

いくつか大きな気づきがありました。

 

その「気づき」とは

「頭」や「思考」の思う

「好奇心・目標・知りたいこと」と

「魂」の思う

「好奇心・目標・知りたいこと」とは

だいぶかけ離れている ということです。

 

 

いわゆる「人生の目標」となると

思い浮かぶのは

仕事や結婚

ライフワークや家庭など

「人生の転機」となる

メイン・イベントを想像する方が

多いと思います。

 

わたしも そう思っていました。

 

つまり「目標」というのは

それくらい「わかりやすいこと」だと

思っていたからです。

 

けれども

実際に人生で味わうこと

経験することの「意義」

「魂の目標」

「魂の知りたいこと」は

「出来事」それ自体ではない

ということです。

 

これは知ってみると

「うそでしょ?!」とあきれて

驚くことばかりなのに

一方で ストンと腑に落ちてしまうので

「そのとおり」と

うなずくしかなくなるのです。

 

たとえばですが

「親子の葛藤」があるとして

「わたしが頭」で想定できる「魂の目標」は

「いずれ互いに歩み寄り

 仲睦まじい親子になる」とか

「それを機に発奮して何か事業で成功する」

などでした。

 

わたしが触れてきた物語の多くは

そのように感じられる

美しいものばかりだったので。

 

ところが実際に

葛藤からの学びを

”なぜ”経験したのか?

”何を”知りたかったのか?

と胸の内で問うてみれば

出てくる答えは

まったく明後日の方向にありました。

 

「たとえ親子でも

 どうしても互いに受け入れられないこと

 譲り合えないものはある。

 

 そのことについて

 どちらかが無理にでも見る視点を変え

 ”前向きに” 捉えようとすることで

 初めて見えてくるものがある。

 

 それは映画のような

 ”美しい結末”とは限らない。

 

 どちらかだけが ”正しく”

 どちらかだけが ”間違っている” 

 という 古いお話によくあるものとも違っている。

 

 ただ”それぞれ”が ”それぞれ”の人生を

 ”自分の選らんだ” 内容で生きているだけ と気づくこと。

 

 そこにはなんの””善悪”も 無かったこと。

 

 同じにはなれない ”それでいい”と知ること。

 

 そうして互いのデコボコの全てを

 ”そのままの自分”で ”そのままの相手”を 受け容れること。」

 

このようなことが

スッと胸に広がると

あぁ そうか と

腑に落ちてしまうんです。

 

自分の想像した 自分の理想の

お話に出てくるような「ハッピー・エンド」とは

まるで違う わたしの家族。

 

わたしが「理想」を見つけ

どれほど追い求めても

どうしてもたどり着けなかったのは

そういう訳でした。

 

理想とは違う。

 

それがわたしの家族。

 

そのことを

ただそのまま受け容れれば

それでよかったんです。

 

ちっとも美しくないし

ちっともおもしろくないし

ちっとも素敵ではない

わたしの家族のまま

そんなわたしのままで よかったのでした。

 

「こんなの わかりっこないよ~」

 

今までのわたしの頭

今までのわたしの思考では

どれだけ考えても

こんな答えは出てこないと思います。

 

なぜなら

「金ピカ」でも「立派」でもありません。

 

あまりに地味で

あまりに素朴で

あまりに「なにそれ?」です。

 

それでも

自分の身に起きた一つ一つを

自問自答してみると

そういう類の答えしか

出てこないのだろうな と

なんとなくわかりました。

 

「経験する」という言うと

どこか「わかりやすさ」「目立ちやすさ」

「冒険」「その結果のハッピーエンド」ばかりを

想像してしまいます。

 

そして その周囲にあった

些末なことは

サクっと切り捨てられ

そんなことあったっけ?と

記憶の中で朧気となるでしょう。

 

でも

実際の「経験する」

「魂の目標」リストに並ぶのは

先ほど触れたような

本当にささいで

本当に地味で

「本当に それ?」

と思ってしまうようなことがほとんどで

中に時々 わかりやすい偉業や

目立つ金ピカの何かが含まれているのかなと

思います。

 

 

もし いま 困っている とか

こんなことでつらい とか

そういう気持ちを持っていたら。

 

「なんで こういうことを

 ”自分は知りたかった”んだろう?」

と 自分に問いかけてはどうでしょうか?

 

「誰それが ○○で こうなった」

という”視点”や”思い”は

誰もがきっと

”うんざり” するくらい「見てきた」と思います。

 

”うんざり”している訳ですから

それはつまり

「もう十分 間に合ってます」

ということですよね?

 

ということは?

 

「もう要らない」

ということではないでしょうか?

 

それなら

その使い古した視点を

サッと次の視点に変えてみませんか?

 

「なんで ”自分は” それを味わったの?」と

”自分に” ”向けて” きいてみる。

 

それが「自分と向き合う」

という表現の理由ではないかと思います。

 

そして

「頭や思考」ではなく

内側から浮かんできたもの

ふと思いついたものを

受け取りましょう。

 

胸の内から湧く思い・言葉は

ある意味 無邪気で

淡々として

どこか厚みがあります。

 

陰りや湿度のない

なんの含みもないものです。

 

だからか

スーッと腑に落ちます。

 

そうやって

自分と向き合うこと

自分にきいてみることを

日々の中で繰り返すと

本当の意味で

納得でき 腑に落ち

気持ちがスーッと楽になります。

 

すると

自然と自分や周囲に対して

温かさや やわらかさを感じられるようになったり

日々の中にある

ささいなことを 楽しむ余裕が生まれたりするのでしょう。

 

「頭で考えた 合理的な答え」ではなく

自分の「内側から浮かんできた素朴な答え」には

そういう力があり

自分の芯を太くしてくれるでしょう。

 

どうかあなた自身に

そうした贈り物を届けてみてください。

 

それは特別なことではなく

きっとやってみれば

いつでも受け取ることのできるものです。

 

だれでも

自分の中に答えはありますが

時に人に尋ねることも

意味のあることです。

 

それは

自分の答えを「補完してくれる」ことがあるからです。

 

人に頼ったり

人に決めてもらうためではなく。

 

自分の答えに対して

さらに「多角的に感じ取るため」に

活用するといいでしょう。

 

その時はぜひ

自分の直観にしたがって

自分が「好きだ」と思う人に

訊いてみてください。

 

その人が発信しているなら

その発信を読んだ後

軽やかで

スッキリするか

感じてみてください。

 

ご自分の感覚と合うか

事前に確認することは大切なことです。

 

同時にご自分の直観を磨くことも

大切です。

 

そのためには

瞑想や手放す方法など

自分に合ったもので

楽しんで

内面をクリアリングしましょう。

 

楽しく

がんばらなくてもできる方法で続けることは

とても重要です。

 

だから

こうしたことについて

ルーティン化

リスト化

義務化することはおすすめしません。

 

心から楽しむこと自体で波動も上がり

効果がアップします。

 

すると

ますます実感も湧いてくるでしょう。

 

いまはいろんな形で

自分に合った方法を見つけることができます。

 

気になる方は

まずは一度 やってみてはいかがでしょうか?