飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

自分の反応を変えるのが一番手っ取り早くて確実

神社やお寺に行くと

その神社の神様や仏様に

延々と話しかけます。

 

そうしていると

「そうだったのか」

と気づきがおきて

おもしろいです。

 

つい先日

高野山を訪れたときも

奥の院を御廟に向かって

延々と心の中で

空海さんに

話しかけておりました。

 

その時 話していたのは

父との不仲にまつわることでした。

 

思い出すものから順に

アレコレ取り留めなく

話していたのですが

いつの間にか

夫との関係や

他の人との関係に

話が逸れていました。

 

そういうことって

ありますよね。

 

アレ不思議ですね。

 

その時も

話ながら

「なんでこんな話に」と

自分で思ったのですが

それでも話し続けていました。

 

すると話の途中で

「あら?」と思いました。

 

父親には

「ありのままの自分を愛してほしい」と望みながら

夫には

「○○になってほしい」と望んでいたんです。

 

「なんかそれっておかしくない?」

 

自分自身のことは

「ありのまま」で「愛してほしい」のに

他の人には

「こうなってほしい」と要求する。

 

「一体どっち?」

 

自分が

「ありのままで」と思うなら

周りのことも同じように

「ありのままで」いいはず。

 

あるいは

「こうなってほしい」と

周りに望むなら

わたしがそう望まれたときも

なんの抵抗も感じないで

すんなり変わればいいはず。

 

「内面が環境を作る」と

知って久しいけれども

「わー まただ!」と

自分でガックリしました。

 

自分のダメなところを

全開にしてしまっても

「まだ受け入れられている」と感じられると

これ以上ないほど

「愛を感じ」ます。

 

「なにか偉大なことをした」

あるいは

「なにか失敗をした」

「なにか過ちを犯した」とか

物理的に目に見える

出来事や結果・行為だけではなく

その内側にある

「愛」とか「光」に

目を向けてくれていると感じるとき

「愛を感じ」ます。

 

こんなにシンプルな方程式は

他になく

その方程式から外れると

途端に苦しくなります。

 

「変われ」と望まれることくらい

不快で苦痛なことってありません。

 

もうそのことを十分よく知っているのだから

「その学習を活かして」

生きていけばいいだけでした。

 

本当におバカですよね。

 

「周りには干渉しない」で

「自分は自分に集中するだけ」が

最善で最高の道。

 

そして

それと同じくらい大切なことがあります。

 

「要らない」と感じるものについて

「要らない」と「素直に答える」ことは

とても重要なことです。

 

相手の好意や親切と感じると

それを「要らない自分」は

「間違っているのでは」と思ったり

「不義理では?」と感じてしまい

本心とは「逆の言葉」で

取り繕ったり

感謝しているように装ったりしていました。

 

 

ところが

シンプルな方程式ですから

「本心を伝えない」と

ますます不快で

ますますイヤな思いをするんですね。

 

「要らない」という自分の思いを

「そのまま相手に伝える」ことで

相手を傷つけてしまうのではと

ずっと怖かったんですが

それも受け入れようと

改めて思いました。

 

「いい人でいる」を

やめよう。

 

うん、もうやめよう。

 

人生でおきるグルグルしたことは

たいていこんな感じで

「自分の反応次第」でした。