飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

大きすぎる奇跡を感じて

朝の散歩中に思ったことです。

 

人は

「大きすぎる」奇跡を

認識できないだけ。

 

朝 目が覚めること。

 

その後 起き上がれること。

 

立って窓を開け

空を見て

天気を自分で知ること。

 

こうしたことは

肉体のあらゆる組織の連携が

絶妙なバランスで成り立っている証ですが

「自動運転」のお蔭で

気に留まらない時間が

長いものです。

 

雨が降ること。

 

晴れること。

 

風がふくこと。

 

すべて

地球全体をめぐる

循環のバランスですが

こちらも同じく

地球の自動運転のお蔭で

気に留まらない時間が

長いのです。

 

あまりにも

大きすぎ

あまりにも

精妙なので

「ピンとこない」

という言い方のほうが

正しいのかもしれません。

 

わたしもそうです。

 

しょっちゅう

忘れています。

 

けれども

グーっとカメラを引いて

宇宙空間から見たら

それは確かに

一連の流れをともなう

「地球という名の

 ”1つ”の生命体の営み」として

映るでしょうし

その視点では

どんなものも

善も悪も区別されることなく

ただ「流れの一部」としてのみ

捉えられると思いませんか?

 

自分の体を見ると

よくわかりますよね。

 

具合が悪いからといって

簡単に取り外したり

取り換えたりできません。

 

どんな細胞も

自分の細胞の一つとして

代謝しながら

そこで活躍してくれています。

 

砂時計を

イメージしてみてください。

 

上にあった砂の

最期の一粒が落ちると

たしかに上の空間には

もう何もありません。

 

それを見て

「あ 最期の一粒が」

と思うこともできますが

ほとんどの人にとって

それは時計ですから

「あ 落ちたな」

と思うだけではないでしょうか?

 

下には砂が

全てありますし

誰かが時計を

そっとひっくり返せば

再び砂は

何事もなかったように

落ち始めて

時計として機能しますよね。

 

ということは

「最後の一粒」も

その視点から見ると

特段の意味合いはなく

「ただそれだけのこと」ですが

当の砂にとったら

「自分が最後なのー?!」

と思ったり

下にいる砂たちからすれば

「あぁ ついに」

と思うのかもしれません。

 

けれども

全ては循環の中ですから

「”最期の砂”が落ちる瞬間」も

全て事前に

織り込み済みで

大騒ぎするほどのことではないと

考える方が自然です。

 

ですから

「下に落ちた砂」が

「最期」と感じた瞬間が

確かにあったとしても

ひっくり返され

「上の砂」となったとき

自分が「上の砂」となったことも

気づかないでしょうし

さきほどまであった

「最期」という意識も

どこかへと消えて

何事もなかったかのように

過ごすのかもしれませんよね。

 

砂時計は

今感じたことですが

大きすぎるものを

認識するには

それだけ自分の認識範囲が

広く深くなくては捉えきれず

そのために

こぼれてしまった分があることも

当然気づけません。

 

これは単純に

「自分の器のサイズ」と

「タイミング」ですから

こぼれてしまうことが

いいとか

悪いとかではありません。

 

きっとわたしも

何も知らず

たくさんとりこぼしまくって

生きてきたことでしょう。

 

こうしたことは

博識な方の書籍を読んだり

お会いしてみますと

はっきりと肌で感じられて

わたしはそういうとき

「自分は単純に

 物の見方を知らないのだ」

と思いますし

そういう方が

わかりやすく

おもしろく説いて下さると

もうそれだけですっかり

ファンになってしまいます。

 

特に

「興味のあること」ですと

その傾向が顕著です。

 

興味のあることは

自分でも探求したくなりますし

知ったことが自分の中で

ゆっくりと染みわたりながら

そっと息づく日を

夢見たりするわけです。

 

そうとなると

「やはりコツコツ地道に」

が確実であり

万人が手にできる

唯一無二の

強力なツールであることは

間違いありません。

 

ただし

部分的にですが

その認識範囲を広げるキッカケとして

オンライン上を使うのも

いい手だなぁと思うことが

かなり増えました。

 

たとえば

オンライン上で

得意なことや

自分ができるもの

つくったものを販売するサイトから

個人の選択で

直接買い付けるシステムや

必要な金額への援助を

呼びかけて

個人が直接それに応える

クラウドファンディングなんかも

そうですよね。

 

こうした

「小さな交流」の恩恵によって

それ以前では

「限界」となったであろう事柄が

次々と「限界」ではなくなることだけでも

すごい変化だなぁと思うのです。

 

そうしたものを

上手に取り入れれば

少なくとも

本当にやってみたいことを

「本当にやってみる時間」に

一歩近づく手段が一つあるわけです。

 

そして

これは推測ですが

本当にやりたいことを

ひたむきにやっていると

いつの間にか認識範囲も

自然発生的に広がるのでは?

と思うのです。

 

というのは

もしそれが

その人の魂や性質にとって

本来のバランスが取れた道であるならば

その内容が

どういうものであれ

当初はどれほど細く

小さな獣道で

「ほんとうに大丈夫?」

と自分でも思うような道でも

足しげく歩くことで

自然とその道幅は

次第に広がりを見せるでしょうし

踏みしめられもするでしょうし

そうなると

他の人もその道が

「通れる」とわかるので

関わる人数も

おのずと増えるでしょう。

 

そこでさらに

洗われ磨かれしている内に

当人の感覚や

視界や視点

その高さも

それにつれて上昇するのが

自然ではないか?

と思うからです。

 

そのためには

やってみるしかないのですが

その最初の一歩を

踏み出すかどうか

というときに

冒頭に触れた

「大きすぎる奇跡」について

感じてみるのも

1つの手かなと思いました。

 

今回の記事が

何か少しでも

お役に立てばうれしいです。

 

それでは

素敵な夜と朝をお過ごしくださいね☆