飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

信じて見守る こじれてしまった家族との距離感は「ちょっと遠いくらいでいい」

離れて暮らす家族の

日々の行いや思いは

わたしの預かり知らぬところが多いので

たまに聞く「告白」に

言葉もなくただじっと見入ってしまうことがあります。

 

驚き

それを言葉にできないので

しばらく黙るしかなくて

そうするのですが

どこかでふと

「一人一人の選択」と感じ

それがどんな内容でも

基本的には

「そうなんだなぁ」

と聞き入れて応援することにしました。

 

もう何年も前のことですが

一時

そのようにはどうしても思えず

それがために眠れぬ夜を過ごすどころか

さめざめと涙を流すことさえあったのですが

ある時期に

「それは干渉なのだ」と

知らされることがあったからでした。

 

それは今も大好きな

とある神社に初めて参拝したときのこと。

 

桜井識子さんの著書を読み

「山岳系の神様は願い事はなんでもOK」

と知ったわたしは

いてもたってもいられず

近県にあるお宮にお参りに行きました。

 

たしか

当初お参りしたかった理由は

当時受けていた不妊治療に関することだったと思います。

 

「子宝を」ではなく

自分の性質が子育てに向いていないように感じたので

「もし恵まれるのであれば

 お母さんに向いた性質になりたい」

というようなことをお願いするつもりでした。

 

ちょっとビビりなところがあるので

「子宝を」とは言えなかったんですね。

 

ところが

いざお宮に入って

心の中で身の上話を切々とするうちに

いつしか

「実家に暮らす家族」のことに

話がすり替わっていったのです。

 

最終的には

お宮の隅っこに立ち続けながら

ひとり号泣する変な人になってしまったのですが

それまで悩みの核となる「家族」について

誰にも詳しく打ち明けたことがなかったので

その思いが堰を切ったように溢れ

もう自分でも止められなかったんですね。

 

そして結局

当初のお願いごとではなく

家族に関するお願い事をし

「アドバイスが欲しいので

おみくじで教えてください」

という形で締めくくって

おみくじを引きに行きました。

 

当時

おみくじでアドバイスがもらえることを

識子さんのブログ記事で知ったばかりで

たぶん初めてそのようにお願いしたと思います。

 

すると

おみくじの書き出しはこうでした。

 

「今は人の知らぬ胸の内に・・・」

うんぬん。

 

この出だしを読んだ段階で

大号泣しました。

 

温かい励ましの言葉に

「あぁ

本当に聞いてくださるんだ」

と心底感じましたし

生まれて初めて

自分の身に起こったこととして

「神仏はこの世に存在する」と

確信を持った最初の出来事でもありました。

 

その帰りの電車でのこと。

 

朝早かったことや

泣いた後のクタ~とした感じから

電車の揺れに

うつらうつらとしました。

 

そして目を覚ましたとき

ふとこんな言葉を思い出したんですね。

 

「一人一人それぞれの人生を

いっしょうけんめい生きている。」

 

「たとえそれが愛情からであっても

そうして生きている人の人生に

干渉してはいけない。」

 

これは以前

識子さんのブログ記事にあった内容だったと思います。

 

その記事では

識子さんのご家族のことに触れていて

とても素敵な人物であるのに

ちょっとしたところが「もったいない」と感じること。

 

けれども

「それはその人の人生であり

その人自身が必要なことは自分で気づいて乗り越えるべきであること」

 

「それに関して

よかれと周囲の人が

先回りしようと干渉したり

強制的に直そうとしたとしても

決していい結果にはならないこと。」

 

そのような記事でした。

 

その記事を読んだとき

当時なりに感じ入ったと思うのですが

その時はまだ「自分の悩みと結び付けて」は

受け取っていなかったんですね。

 

それが急に思い出された途端

「今回のお願いに対する答え」だと

思いました。

 

大げさに思えるかもしれませんが

それはもう本当に

乾いた砂に水がスッと染みわたる様に

すんなり入ってきた感覚です。

 

「あぁ

わたしが今まで

悩みと思い

苦しんできたの事のすべては

単なる”干渉”だったのだ」

 

「”相手のため”と言いつつ

結局は自分に迷惑がかからないよう

苦心していただけだったのだ」

 

「よかれと思って

アレコレ口出しするたび

あんなにいやがられたり

嫌われたりしたのは道理なんだ」

 

「それを相手の不義理や不誠実のように思って

一人で勝手に

憎んだり怒ったりして

ヘトヘトになっていた」

 

「最初は愛情であっても

結局のところ

”コントロールしよう”という相手に

腹を立てるのは当たり前なのに

わたしはそれにちっとも気づけなかった」

 

書いてみると

このようなことですが

それをほんの一瞬で

すんなりと受け取ることができたのです。

 

その日からすっかり

家族のことに関しては

頼まれない限り

タッチしないことにしました。

 

頼まれたとしても

頼まれた範囲のことで

自分が気軽にできる範囲のことだけに応えるようにして

あとは自分の人生に集中することにしたのです。

 

それがどのような選択や行動でも

その人の人生で

その人のものです。

 

その人の選択や行動が

結果としてどのようになったとしても

小さな子どもではない限り

任せるしかないのですよね。

 

それはわたしの人生もそうで

時には

「もう誰か手を引いてくれたらいいのに」とか

「どうしたらいいか教えてくれたらいいのに」とか

甘えたくなる時もありますが

そうして足掻いた時間も

味わい深い滋養となることがわかりかけてきました。

 

ありがたいことに

いまはまだ両親とも元気でいてくれています。

 

これから先のことは

適宜必要に合わせて変化させて

今は当分このスタンスでいこうと思っています。

 

今日の記事は

もしかしたら必要な人もいるかもしれないと思って

書いてみました。

 

「この人はそう思っているのね」くらいで

読んでいただければ幸いです。

 

それではみなさんにとって

素敵な夜と朝になりますように☆