飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

父とわたし

現実は鏡の法則

 

そう知って

今ことあるごとに内観するようにしています

 

先日こんなことがありました

 

数年ぶりで両親に会いました

 

そしてそこで

父の言動に少しばかり

子ども心に傷ついたことを思い出しました

 

今まででしたら

それは父の性質で

それに傷つけられたと思って

ただ悲しんでいたと思うのです

 

けれども

鏡の法則を思い出し

「引っかかるポイントこそ

自分の中にある手放すポイント」として

見ることができました

 

おどろきました

 

そして恥ずかしくもなりました

 

今まさに

その通りの自分がいたからです

 

父の言動でいつも気になったのは

「相手の生き方は認めず

自分の価値あると感じる教訓的なことを言い

相手の意見は聞いていない・聞くに値しない」

という姿勢でした

 

昭和のお父さん像として

共感される方もいるかもしれませんね

 

数年ぶりの再会というのに

父はそのような話しぶりで

変わらないことがすごいなとも思いました

 

目の前にいる子どもも

年々歳を重ねているわけで

一般的に見ればもう十分に大人です

 

それでもなお

父は同じように自分にとっての

価値あることだけを認め

わたしのしていることにはあまり納得できないようでした

 

この点について

わたしは「ハッとした」のです

 

わたしもよかれと思い

また自分もそう在りたいというあこがれもあって

ここではいつもスピリチュアルな内容など

記載しています

 

それは当初

初心者として感じたこと

わかったこと

経験したことを記載することで

わたしもそうだったように

同志として

「どなたかのお役に立てるかもしれない」と始めたことで

それは今もなお変わりません

 

しかし一方では

父が身をもって示してくれたように

「自分にとって価値ある教訓だけに固執

相手の方の自由な在り方を手放しで受け入れられない」態度や

「教えたい」という

ある種の道理のわかった者として

認められたい・目上の者として敬われたい

という見栄や欲が

自分の記事や言動にも滲んでいたのではと思いました

 

それを透かし見られていたようで

恥ずかしくなったのです

 

もし

相手と自分の違い・互いの自由について

本当に心底オーケーを出しているなら

父がどのように話そうと

わたしはただニコニコとしてしたでしょう

 

父の話しがどうであれ

わたしはただ

わたしの父である大切な人が目の前にいて

元気に話したいことを話せるという事実に

心から素直によろこぶことができたのだと気づいたのです

 

父は父として

大きな教えをわたしにくれました

 

家族とは身近であるからこそ

幼少期から多くの影響を受け取ってきたと感じています

 

それは自然なことであると同時に

大人となり

スピリチュアルな視点は学ぶようになった今となっては

一つ一つの不快感やモヤモヤは

いつまでも握りしめるものではなく

今の自分にとっては

「手放しポイント」の在りかを示す「サイン」そのものであり

それに気づいたのなら

相手を責めてきた気持ちも

自分の中の不快感も

「私がそれを持っていたんだ」と認め

手放すと自分で決めて

サッと手放すだけとわかったことが

なによりありがたいのです

 

おとうさん

ありがとう

 

この記事が少しでも

お役に立てばうれしいです

 

それでは素敵な一日を