飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

モコのさんぽ

柴犬のモコは、いよいよこの坂を上ったらば

自宅である、というところになって座り込んだ。

 

「またぁ。」

 

春子はこんもりと丸い茶色の塊が

アスファルトのど真ん中で

一向に動く気配のないことにうめいた。

 

「ほら、モコ行くよ。」

 

行かないのである。

 

モコとても本当ならば

ここでダッシュしたいのは山々なのだ。

 

そろそろ咽喉も乾いた。

 

何よりここは寒い。

 

しかし、今日ばかりはそうはいかないのである。

 

「なにスネてんのよ。」

 

春子はモコの鼻先に座り込んだ。

 

春子のショッキングピンクのパンツは

モコに目にすらまぶしすぎるので、

モコは顔を背けた。

 

春子はいい人でモコの気持ちを

いつも尊重してくれるので

モコは春子を信頼している。

 

それは家族の中で一等信頼しているので

春子にもそう伝わっているのだが。

 

「モーコー。どした?おなか痛いの?」

 

ちがう。

 

お腹などいまやスッカラカンで

もうどれ程きばろうとも出ようがない。

 

春子と行く散歩はいつも大好きな道のりばかりだし

その行程もモコのいいようにしてくれるので

モコは出したいだけだし

嗅ぎたいだけ嗅ぎ、

触りたいだけ触ることができた。

 

これが敏夫だとそうはいかない。

 

敏夫を万事せっかちもので

それゆえ、モコの散歩だというのに

自分のペースと都合だけで歩き

時には排泄さえも急かされ

いったい何のための

誰のための散歩か!と

思わずにはおれない。

 

春子と敏夫は夫婦だが

さりとてここまで性質が違うのに

よくもまぁ、一つ屋根の下で暮らせるものだと

感心せずにはおられないのである。

 

敏夫も根は優しいのだが

なにせせっかちばかりはどうにもしようがないらしい。

 

それで時々家の中で

勝手に頭をぶつけたり

肩をぶつけたり

足の指をぶつけたりしている。

 

春子に言わせると

「せっかち過ぎて体と現実がちぐはぐなのね。」

だそうだ。

 

モコにはさっぱりわからない。

 

ただしわかることもある。

 

今ならばさしずめ

敏夫の機嫌がすこぶる悪く

出掛けにモコへ罵詈雑言を浴びせかけ

居間のドアをバタンと締め出してくれたことなぞは

大いにモコの記憶に残り

モコだけでなく春子をも不愉快にさせたことは

よくわかっていた。

 

しかるにモコはまだ帰りたくないのだ。

 

敏夫はこのところ暗い。

 

そして時折感情が爆発して

大声で言いたいことを言いたいようにまき散らす。

 

その間、春子は応戦することもあれば

ただ静かに見守っていることもある。

 

モコは子どもの時分から怒鳴り声というものが大の苦手で

それがたとえ春子であっても

怒鳴り声が聞こえるやいなや

可能な限りの速さでもって

全速力であらゆる障壁を開け

最後の扉の前にてクンクン鳴いては

外に出してくれと前足で扉を拭きふき

ねだるのが常だった。

 

たいていは春子が後から追うようにやってきて

モコをそっと庭へ出してやる。

 

「ごめんよ。お前がこんなに嫌なの、知ってるのにね。」

 

モコの頭をなでる春子は

たいそう悲しい顔をしている。

 

これが常ならば

すぐさま春子の手なり顔なりを

ペロっと一舐めして隣に座り込み

いつまでも春子のそばから離れない。

 

しかしこと怒鳴り声のあるときは

そうもいかない。

 

こういう時のモコは

まずは逃げることで頭がいっぱいだった。

 

扉が開くやいなや脱兎のごとく

庭の隅へと走り去る。

 

しばらくして気持ちが落ち着いてみると

春子の悲しい顔が思い出され

そうなるとナイトの精神で

慌てて取って返す。

 

モコにとって春子は

信頼にたる存在であると同時に

守るべき存在でもあるから。

 

そして今この時

帰ると言いつつ

当の春子自身帰りたくないことも

わかっているから。

 

「あ、カレーだ。」

 

春子は鼻をヒクヒクさせて立ち上がった。

 

目の前の軒先には赤いモミジが溢れ

その向こうからはテレビらしき物音と共に

かぐわしい香りが流れてくる。

 

「おなか空いたなぁ。」

 

春子はお腹をなでながら

夕空を見上げた。

 

モコもそう思う。

 

出すものを出したらば

腹が減るのは道理だ。

 

よく歩いた後なら、なおのことである。

 

「今夜はなんにしようかなぁ。」

 

春子は持久戦の構えで

道端の柵にもたれかかった。

 

夕飯のメニューをつらつらと

思いかえす。

 

「昨日はお刺身でしょ。

 その前は、なんだっけか。」

 

春子はモコにたずねた。

 

モコは首を斜めにかたむける。

 

さも「なんでしょうね」と

言いたげに。

 

春子がおぼろげに覚えているのは

冷蔵庫にあった卵。

 

じゃがいもが一袋。

 

あとはしょうがだの

薬味ネギだのくらいだ。

 

「うーん。なにも浮かばない。」

 

そう言ってヘラっと春子は笑った。

 

モコは春子の顔を見上げながら

ちょっとしっぽを振ってみせた。

 

「お、そろそろ行くかい?」

 

春子が座ってモコのほっぺを

わしゃわしゃとなでまわす。

 

モコはこうされると

いつでもなんともいえない気持ちで

ふにゃっとなる自分を感じていた。

 

春子がうれしそうに

モコのほっぺをわしゃわしゃとすると

なにもかもがどうでもいいことのように思えてくる。

 

それでなんとなく

それまで胸の中にあった

チクチクやムシャクシャが

どこへともなく飛んでいく。

 

春子はこのことを知らない。

 

わしゃわしゃとモコの切り替えとが

ワンセットになっているとは気づいていない。

 

そして春子自身から発せられた

「帰りたくない」空気も

いつの間にか薄れていった。

 

それでモコは腰を上げ

すたすたと歩き出した。

 

「いいねー、行こう行こう。」

 

春子は何やら歌っている。

 

何の歌だったか。

 

何か聞いたことのある音楽だ。

 

タラタッタ タッタッタ

 

タラタッタ タッタッタ

 

タラタッタ タッタ タッタ タッタ タッタッタ

 

見慣れた青い屋根の軒先が近づく。

 

すると先ほどと同じにおいがするのを

モコは感じた。

 

しばらくすると春子も気づいた。

 

「あら。」

 

うれしそうな声を出し

春子の歌はいっそう大きくなった。

 

玄関につづく階段を軽やかに駆け上る。

 

軒先には春子の丹精込めた木々が

生えていて

その向こうからはテレビの音が流れてくる。

 

「ただいまー。」

 

扉を開けたとたん

あの匂いが充満していた。

 

「おかえりー。」

 

敏夫の声はいつもどおり

明るいものだった。

 

「カレーだ、カレーだ。」

 

春子はモコの足を拭いてやると

いそいそと玄関を駆けて行った。

 

モコもその後を追って駆けて行く。

 

今夜はカレーらしい。

 

しかし、モコには一切関係のないことも

モコはよく知っている。