飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

モコと敏夫

敏夫に「特技は?」と尋ねたならば

「料理」と応えるだろう。

 

実際馴れているので手際はいい。

 

たが、若干衛生観念というものが欠けていると

春子は思う。

 

切った野菜が下に落ちたら

余裕で拾って鍋に入れるし

床にこぼれた水は

なんの迷いもなく台拭きで拭く。

 

それを見つける度に春子のこめかみには

薄っすらと何かが浮くのだが

ここ数年の精神鍛錬の成果か

見過ごすという能力を春子は身に着けた。

 

このことはこれから先の春子にとって

そしてモコや敏夫にとっても

なによりの賜物である。

 

さて、モコはこの敏夫の料理によって

春子とでは味わえない幸福を手にしていた。

 

というのも

春子は肉料理をあまりしない。

 

「匂いがちょっと」と言って

作るのを嫌がる。

 

一方、敏夫は肉が好きだ。

 

とびちる油汚れをものともせず

(というか一顧だにしていないだけなのだが)

バシバシと肉をフライパンへ投入しまくる。

 

よって、モコはそのおこぼれを

頂戴できるというわけだ。

 

モコの中で敏夫は家族ではあるが

好きな人ではない。

 

春子が呼べば

どこにいようが飛んでいくが

敏夫が呼んでも

その場にステイが基本姿勢である。

 

ただし

手に肉があれば話は別。

 

敏夫が台所に立つが早いか

モコはいつにない機敏さで

台所の隅っこに陣取る。

 

モフっとしたフサフサのしっぽを

ふんふんと左右に振っては

熱い視線で敏夫の背中を見つめるので

春子は「またやってるわ」と

笑わずにいられない。

 

「また来てるのか。」

 

「うん、待ってるね。」

 

「こんなあからさまな現金さを

憎めない自分が憎いわ。」

 

敏夫はそう言いつつも

素焼きしてやった肉を

モコの皿に乗せてやる。

 

モコはただ肉だけを見つめて

皿に食らいつく。

 

まさに「犬まっしぐら」というやつだ。

 

「お前なぁ。」

 

「いや、もういっそ清々しいよね

ここまでくるとさ。」

 

「ふん。」

 

苦々し気な顔つきで

敏夫は再び料理に戻る。

 

肉はおいしい。

 

正直に言えば

春子がくれるごはんより

ずっとおいしい。

 

だから本当は毎食これにしてほしい。

 

モコはずっとそう思っている。

 

いつものごはんは

「カリカリ」と称される硬いもので

モコは最近になって

それがちょっとイヤになってきた。

 

もうちょっと柔らかいのがいいのに。

 

そう思っているが

春子はそれにまだ気づかない。

 

モコが同じペースで食べているのは

ちょっとした努力もある

ということを。

 

気づいてもらうには

どうしたらいいだろう。

 

モコは食べている最中

そう思うが

すぐ忘れてしまうので

毎回その繰り返しだ。

 

それに比べて

肉の柔らかいこと!

 

敏夫はそんなに好きではないが

こういう時ばかりは

敏夫をもう少し好きになってやってもいいかなと

思ったりする。

 

それもすぐ忘れる。

 

それでやっぱり

敏夫との距離は

一向に縮まらない。

 

これでも平和に暮らせるのだ。

 

モコはそう思っている。

 

口の周りをペロっと一なめして

チラっと敏夫を見た。

 

「もう無いぞ。」

 

気配だけで受け応えするあたりは

さすが長い付き合いである。

 

その声を聞きつけた春子が叫ぶ。

 

「こっちゃん、無いってさ。」

 

春子がそう言えば

モコはタタっと軽やかに戻っていく。

 

「おいしかった?」

 

フサフサのしっぽをフリフリして

満面の笑顔で戻ってくるモコに

春子はニコニコ顔でソファを叩いて

招いてやる。

 

モコも当然のようにして

サッと飛び乗り

クルっと体を丸め

春子に遊べと手を出す。

 

「よかったねー。

お父さんに”ありがとう”した?」

 

へへっと笑ってモコは誤魔化した。

 

「またお前は。

”ありがとう”は大事よ。

”ありがとう”してきなさい。」

 

ちょっと怖い顔をされると

笑顔をひっこめてしょんぼりし

観念して再び台所へ入っていく。

 

モコの”ありがとう”は

お座りして前足でもって

人の足を「ちょんちょんと触る」

というものだった。

 

春子が唯一教え込んだ芸で

なおかつ敏夫以外には適用されない。

 

これぞ限定の極みであり

希少性の高い芸なのだ。

 

「お父さんにお肉もらったら

”ありがとう”するのよ。」

と毎回言われる。

 

モコは自分を

大変聞き分けのいい犬と

自負している。

 

それにも関わらず

お肉を食べた後の満足感が

毎回”ありがとう”を忘れさせてしまうのだ。

 

肉の力、恐るべし!

 

お肉を食べた後

毎回決まって忘れ

毎回決まってやり直すので

それも含めてのルーティンになってやしないかと

春子はここ最近にらんでいるのだが

まぁそれはいい。

 

モコはすごすごと

敏夫の足元に寄って行って

お座りした。

 

「なんだ?」

 

ちょんちょん。

 

見上げると

敏夫は笑うような

苦り切っているような

何とも言えない顔をして

モコを見つめている。

 

「もういい。あっち行け。」

 

言われなくても

戻りますよ。

 

なんの未練もなく

モコはスタスタと出て行った。

 

敏夫は誰にも見せられないくらい

デレデレとした顔をしてしまい

そういう自分をモコに見せるまいと

堪えるタイプだった。

 

春子にとってそれは永遠の謎だ。

 

「そこでニコニコして

かわいいねーって言えばいいのにね。」

 

一生かかっても理解できないことが

この世にはあると春子は思う。

 

モコには

さらにわかるまい。