飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

曖昧な姿を見る世界だからこそ

夏至あたりから

「清濁併せ呑む」が

テーマらしく

そうした記事を読んだり

経験をしたりしました。

 

正確には

「”表面の状態・現象”だけで

 識別せず

 ただ”それがそうある”と

 認識するに”留める”」

 

「自分のいいところも

 そうでないところも

 そして周りにいる人の

 いいところも

 そうでないところも

 ”今のありのままで”受け入れる」

という

すっかり見慣れた内容です。

 

「盗む」のは

法律上も

道徳上も

信仰の上でも

「罪」とされます。

 

その一場面だけを

切り取れば

わたしにとっても

そうなのですが

ただ一方において

「その行為が

 ”どこから”  発生し

 ”どのような” 経緯があって

 ”今ここ”で  芽吹き

 起きているのか」

と捉える時

「今この瞬間」見える範囲や

「今現在の」社会通念や

「自分個人の」人生経験や感覚を元に

「”この瞬間だけ”の視点で

 その行いを

 ”罪や問題”と

 判じることの危険性」を

急に強く感じるようになりました。

 

というのも

ここ数日

目にするものや

経験したことから受けた印象は

「全てが”この瞬間”

 目に見えている形だけで

 起きているのではない」

と感じたからです。

 

人生全般について

自分がそうと認識しない小さなところにも

宇宙的な視点や

めぐり合わせがあります。

 

それは大きく

あまりにも広い視点によっておきます。

 

そうした大きさを前提にしないまま

「判断しよう」とする時

結果として

「現在だけ」を起点とした

「善と悪」や

「正解と間違い」

「前例の有る無し」のような

多数決や二元論になるのかもしれません。

 

でも

実際どうでしょう?

 

多数決や二元論で出された結果を

自分が受け取る時

悲しかったり

つらかったり

くるしかったり

モヤモヤした経験は

ありませんか?

 

合理的を優先した結果

わかりやすさではなく

零れ落ちる何かが

強く出ているように思います。

 

そうした従来の二元論によって

感じていたモヤモヤを

一気に抜け出すような

「思いもよらない」

アイデアや

ひらめきが湧き

「気持ちが救われた経験」

皆さんも

何かお持ちだと思うんですね。

 

それまでは

「とにかく解決しなくちゃ」

「とにかく答えをださなくちゃ」と

パッと見て

「間違い」や

「悪」として

モヤモヤ

イライラしていたのに

急に上から

あるいは後ろや

斜め上から

「見えるように」なったことで

「ハッとさせられた」のと同時に

「間違い」でも

「悪」でもなかったのかと

「腑に落ちる」ような経験です。

 

こういう経験は

非常にバツが悪く

自分の見る目の無さに

情けなくなったり

後悔したり

恥ずかしくなったりしますが

一方で

相手や

出来事への愛情や

人情が湧いてきて

気持ちが救われることもあり

確実にいい勉強になります。

 

わたしは

そういう勉強

何度もさせてもらいました。

 

曖昧だったり

単色ではない人の在り方

生き様に気づいたことで

考えさせられたり

自分を見直すキッカケになりました。

 

そうした

「思いもよらない」ことは

起こそうと思って

起きたのではなく

「時が熟してそうなった」としか

言いようがありません。

 

それこそ

「受け取る器ができるまで」

そうしたアイデアもひらめきも

やってこないのか

あるいは

やってきても「わからないだけ」

かもしれません。

 

そして

器は何の努力もなしに

「勝手にできるのか」というと

どうもそうではないようですね。

 

やはり自分なりの

「気づき」と

そこからの「試行錯誤した行為」があって

それがある一定の間

あるべき方向で続いていれば

「アイデア」が来たりするのかなと

思います。

 

その状態を

更に試行錯誤していくと

結果として

意図的にアイデアがきたり

タイミングがあったり

願うよりも前に

形になったりするのかもしれませんね。

 

そこをわかった上で

これから必要なこととして

「今 強く求められている」のが

「自分や周りを見る目」を

意識的に

広く

高く

ゆるやかに持つこと。

 

「二元論の判断」は卒業し

選択が必要ならば

本当の魂の声に

耳を傾ける。

 

魂の声なら

それは迷いなく

スッと軽やかに

湧いてくるでしょう。

 

迷いがあるのなら

どんな状況でも

無理にする

性急な判断は

ぜひ回避したいところです。

 

そして

「広大無辺な視点」によって

日々は在り

その中で一人一人が

自由意志を使って選んだ

撒いてきた種を

「今まさに

 味わい

 刈り取っている(経験している)だけ」

と知ること。

 

目の前の状況だけをみて

「こうしたほうがいい」とか

「これはよくない」とか

「頭で安易な解決策」を考えるのは

一旦止めてみる。

 

穴があるなら

その穴は

「急に」できたりはしないですよね。

 

穴が開くような

「何か」があり

その結果

ある時「穴があいた」

 

穴が開くような

「何か」も

そうなる「流れ」

そうなる「選択」があった。

 

善意でも

この「何か」や「選択」を

汲み取らない在り方は

「不自然」で

無理が生じます。

 

他者の在り方

生き方への干渉は

よくよく気をつけたいところです。

 

そして

そのすべてを見渡すには

生きている自分の視点は

「まだあまりにも小さく」

「見えないものの方が圧倒的に多い」のだから

そんな自分が

「ああしたい」

「こうなりたい」

「こうでなくちゃ」と

小さな「頭だけ」で考えて

「事態をコントロールしよう」とするよりも

コントロール意識を手放し

タイミングが来たとき

自分がそのタイミングに

上手に乗れる準備をして

タイミングが来たら

自分らしく

「そうありたい」と思う姿で

精一杯やりきるほうが

「よほど いい作戦」ということ。

 

自分の生き方

在り方に集中して

日々を大切に生きることが

最善だと思います。

 

やりたかったこと

やってみたかったことを

1つでもやってみることに

意識を向けると

周囲の環境も

自然と笑顔がこぼれるものへと

変化していくのは

不思議ですがうれしいものです。

 

今回の記事は

ちょっと散らかっていますが

何か少しでも

楽しんでいただけたらうれしいです。

 

それでは

素敵な夜と朝をお迎えくださいね☆