向こう三か月間の全体の雰囲気
てんびん座がASCであることから
人付き合い・1:1のパートナーシップ・社交性での
「調和・バランスのとり方」が重要
多くの水サインがあることや
MCがかに座であることから
「他者への共感・わかろうと自ら手を差し出す姿勢」が目標であり
それは
「結局のところ一人では生きていけない」し
「自分の価値観・正義感・世界観を ”他の人に押し付ける”と 調和は崩れる」
という感じに見える
公園にある遊具は
そのほとんどが一人でも遊べるのに
「シーソー」だけは違った
自分一人では
あの「ギッコンバッタン」の衝撃はない
誰かが対面に乗り
タイミングを合わせて
地面をけり上げたり
体重をかけたり
互い違いに
息を合わせると
やっとお待ちかねの
お尻が痛くなるような「ギッコンバッタン」になる
相手の方が「軽い」場合も
「重い」場合もあるから
そのあたりは
「お互いの協力」が欠かせない
これはつまり
「”ギッコンバッタン”を楽しむには
タイミングよく
入れ違いに体重をかけることが必要なんだよね」
という共通認識をお互いが持っている
という前提条件があるということでもある
もし 相手が
年端も行かない
小さな子だったりすると
そもそも一人では座らせられないし
年上だとしても
協力し合えないと楽しく遊べない
もし自分が
「それでもいいや」と
「ギッコンバッタン」にこだわらず
「シーソーに”一緒に座っていること”の方が大事」として座り続けるなら
それはそれでいいのだ
小さな兄弟のために
年老いたおばあちゃんのために
大好きな愛犬のために
あるいは障害を持つ友達や家族のために
「一緒であること」の方が
「楽しくできること」よりも
「はるかに重要な瞬間」はいくらでもある
今年は春分図から
そういう色味が強いけれども
ここへきて
一層そうした
「わたし 対 他者」の間に
「違い 多様 自分からの協力姿勢 成熟した関係性・調和」
というカラーが強く押し出されている感じがする
それらは
突き詰めてみると
「自分とは違うスタンスの相手に対する 思いやり・度量の広さ」という
「自分自身の内面的な成熟を目指そう」という話になりそうだ
「人のふり見て 我が振り直せ」
自分のことは自覚しがたいが
他者を通してわが身を振り返るのは
意識さえしていれば
比較的気づきやすい
誰かを責め立てている場合
そのほとんどは
「無自覚にも それと近いものを 自分が隠し持っている・求めている」という
心理は実証されて久しい
特に正義感については
「よくよく自分自身を振り返ること」をおすすめしたい
誰かに振り上げたこぶしは
えてして
後の自分に返ってきてしまうものだ
そして
わたしの経験では
闇にあるものは
「芯からの 大きな まっすぐな愛」によって目覚めることはあっても
厳しさや制裁によって目覚めることはないと思う
スタンスが違う相手に対して
イライラや排他で対応するのではなく
相手のバックボーンや個人的な環境など
「見えない部分」に「思いを馳せること」は
多大な神経を使う
しかし
それなしに「本当に信頼できる対人関係の土台」は築けないし
その労力は
きっと一人ひとりを「よりよき未来へ」と連れていくだろう
もし
これを機にそうした取り組みを始める場合
ぜひとも
日々「自分自身への心身のケア」にも
今まで以上に注力したいところ
自他共に
掛け替えのない存在として
心も体も使うことが
いわゆる「成熟」なのではないだろうか
決して自己犠牲にならないよう
心がけたい
そしてまた
「成熟」とするならば
「時に難しく苦しい険しい道にもなる」ということ
自分が「気持ちよくなる」ような
「悦に入る」ような
「美しく 見目の良い方法ばかりではない」ということも
覚えておきたい
優しさの反対は無関心だという
無関心になる原因に
「深く関わることで 自らが傷つく 苦しくなる」
という実体験が引き金となるケースがある
けれども
人に対する無関心は
人として
生き物として
少々不自然な在り方ではないだろうか?
「傷つきたくない・傷つけたくない」と言う理由で
赤ちゃんを「ずっと何もない部屋」に閉じ込めて置けるだろうか?
それこそ
非人道的なのでは?
誰かと
何かと関わるとき
そこには刺激が生まれる
その刺激から
「どう在るか」を決め 実行して
初めて「生きている」という感覚が生まれ
それが結果として「成長・成熟」につながるのでは?
本当に人にとって必要なことは
「不都合を一切徹底的に排除して関わらない方法・スタイル」よりも
「どこまで関わるのか」を
自分なりに決めて
「お互いに きちんと境界線を 相手に伝えながら 関わること」
という雰囲気がしている
「ここまでは お引き受けます」
「ここから先は お断りします」
境界線を「自分で徹底している人」は
ある人にとっては「冷たく見える」だろうが
ある人にとっては「信頼できる人」になる
それは経験則から生まれたものだろうし
それを理解できる人は
つまり似たような経験をしてきた人に違いない
他者と関わることは
他者からのリクエストを 無条件に引き受けることではない
他者と関わることは
自然な活動であり
自然な欲求である
自然な生命の在り方として
そのままの自分と
そのままの他者との間で
双方にとって「快適な距離感」を測り
その距離感でもって関わり続けることだ
他者と関わりながらも
揺らぎない境界線を「終始一貫して引く」ことは
「自分の責任の範囲と覚悟」を
他者だけではなく
自分自身にも示すことになる
それは双方にとって
長く続ける関係であるほど
安定した関係性の土台となるだろう
そのために
自分を磨くであろうし
そのために
尽くせるものを惜しみなく尽くせる
そういう意味で
「お互いにとってベストな状態」であるための「制限・境界線」は
安定・安心したシステム・ライフスタイルには欠かせない
そこに
「信頼が生まれる」
その面倒を避けて
「無関心でいる」と孤独になる
この労力を払うことは
その後の経過・進展を
かなり大きく変えるはず
これから五輪ともなれば
異文化圏の人々と関わる場面が
グッと増える地域も多くなる
迎え入れるわたしたちにとってもそうだが
「やってくる人たち」や「そのご家族」にとっても
今回の開催は
従来にはない強い緊張感に迫られていると思う
特に
まだこれといった「見通し」もない状態で
安全対策がいきわたっているとは言い難い中
この国にやってくること自体
従来なら必要のなかった決断や医療行為が必要なのだ
そこには
信仰や倫理観だけではない
「家族や周囲とのすり合わせ」が不可欠だったと思う
それもまた
各人にかかった負荷に違いない
それでも彼らは
各人の決意や必要性によって
このタイミングで参加したのだし
それを迎える国内のチームの人すべてに対して
頭が下がる
異文化圏であることは
おもしろいことであるし
多様性を目の当たりにすることでもあるから
同時にショックも受けやすい
今は世界中の人が
いろんな情報の中で
「様々な主観によって」今日を生きているので
比較的そうした「違い」に
目が行きやすい時期でもあると思う
そこは
この国に生きる人にとっても
やってくる人にとっても
「お互い様」なのだ
それを「シーソー」と見立てると
一度も参加しない人もいるし
誰が相手でも乗り続ける人もいるし
待っている人を気にして数回で下りる人も
友達同士だけでずっと続ける人もいる
どれが正解とか 善とかは無い
ということは
不正解も 悪もない
ただシンプルに
「そういう世界になったんだな」と受け入れて
そういう世界の中で
「じゃあ 私はどうしていこうかな」
「座るとしたら いつまで座ろうかな」
「友達とだけ座ろうかな?他の人もいいかな」 などと
日々 自問自答しつつ
「固定・継続・安定」にこだわるよりも
自分自身のカラーや
居心地・フィット感といった
「体感・五感によるGOサインとSTOPサイン」という
「極めて個人的な判断材料」を指標として
流動的にスタンスを決める方がいいのでは?
ということが星からは感じられる
これは一見すると
「そんな立証性も科学性もない”個人見解”で」
という見方も出そうだけれども
結局の最終判断は「ご自分で」が周知の事実なのだ
だからこそ
こだわるよりも
「軽やかに流動的であることの必要性」というか
「変わり続けることを前提」とした思考回路や在り方が
いましばらくは求められていく感じがする
昨日まで機能していたことが
明日は機能しないこともある
逆に
昨日まで無かった機能が
明日からは誰にでもオープンになることもある
その自問自答の芯となる部分が
「一人では生きていけないんだよな」になる
ということではないかなと思う