飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

子どもだった時の気持ち わたしはわたしの味方でいよう

みなさん

いかがお過ごしですか?

 

夏至図では

いつもと雰囲気の違う文体になってしまいました

 

今回の図は

いわゆる「厳しい解釈」の図だったので

その雰囲気がどうしても出てしまいました

 

けれども

どんなこともに

長い目で見ると

人類は確実に

「自由と平等」へ近づき

「より良くなる流れに乗っている」と

感じています

 

一過性の「厳しさ」も

その先への架け橋なのだと

思っています

 

そういう意味合いで

一つでも受け取っていただけると

うれしいです

 

さて

随分長いこと

忘れていたのですが

社会人になってからも

父や母と好ましい関係を作ることができないでいました

 

それがほんとうに負担だったので

書籍を読んだり

見よう見まねで

メンタルワークをしてきました

 

ここ数年かけて

アレコレと少しずつ和らげて

昇華してきたことで

かなり落ち着いていたんですね

 

それが

最近になって

「あら」と

驚くことがあったので

お伝えしたいと思います

 

毎年父の日 母の日は

欠かさず何か贈り物をするようになって

結構経ちます

 

母は

中身が気に入る 気に入らないとは別に

ありがとうと反応してくれます

 

父は

そもそも興味を示しません

 

ほとんど喜んでくれたこともありません

 

母は

父は大人げないと怒りますが

わたしは気にしていませんでした

 

「生きているうちに

できる孝行はしたほうがいいよね」

とわかったような気持ちで

なんとなく贈り物を送るだけだったからです

 

完全な

自己満足でした

 

自分なりに

時間を割いて贈り物を選んだつもりでしたが

よくよく考えてみると

「父が本当に望んでいるものは何か」

という視点はありませんでした

 

それに気づいたのが

今年の父の日の直前です

 

 

 

 

今年の

月食・日食の解釈から

過去を振り返っていたときでした

 

「おとうさんが

一番ほしいもんは

全然ちがうことだろうな」

とハッキリわかったからです

 

そしてそれは

「わたしの生き方」であって

物ではありませんでした

 

それと併せて

10歳にもならない頃に感じていた

父や母への不満を思い出しました

 

〇〇してほしかったのに

 

○○してくれなかった

 

と「子どもらしい まっすぐな気持ち」が

湧いてきました

 

年齢を重ねた今

当時の父や母の状況や気持ちを

察することはできます

 

けれども

子どもだったわたしの思いは

それとはまったく別物ですよね

 

ちょっとショックでした

 

もうすっかり克服した

昇華できたと思っていたのに

 

それが実は

「帳消しにできたフリをしてた」だけ

とわかってしまったんです

 

大人になって

気持を察する力を得たことで

「大人になったから わかったこと」と

「子どもだったころ 感じたこと」を

「あの頃は○○と思ったけど

今になるとそれも仕方ないよね」

と言う感じで

時を超えて「勝手に”相殺できた”気がしていた」だけでした

 

それはお門違いで

「それと これとは 別なんだ」

とわかったんです

 

お子さんがおられる方は

よくおわかりかと思いますが

子どもの気持ちは

子どもの気持ちとしてあるんですよね

 

静かにしないといけない とか

 

聞き分けないといけない とか

 

大人の都合や

周囲の状況に合わせて

要求されるメンタルを養ってもらいたい場面でも

子どもには子どもの都合があります

 

「その時の純粋な気持ち」が

ありますね

 

弟や妹ができたからって

やはり自分を一番かわいがってもらいたいし

 

どんなに大きくなっても

やはり自分を認めてもらいたい ほめてもらいたい

 

どんな自分でも

愛してほしいし

受け入れてほしいんです

 

たとえ小さなことでも

それが社会的には

見向きもされないようなことでも

父や母には

「応援するよ」と

言ってもらいたい わかってもらいたい

 

そんなピュアな子ども心を

大人になったわたしが

「これはコレでトントンね」と

大人の都合で解釈を変えるのは

「子どものわたし」に対する

侮辱というか

否定になってたんだなと

 

それこそ

もっとも回避すべき道でした

 

なぜなら

自分の気持ちは

自分が最初の理解者として

「そうだね そう感じたんだよね」と

肯定しないことには

立つ瀬がないからです

 

自分で自分の気持ちを否定する

 

「こんなことは

思ったらいけないんだ」

 

「もう大人なのに

このままじゃいけない」

 

と心の中まで

都合よく整理しようとすることで

本音は

より奥へと隠れていたんですね

 

今回浮かび上がってきた

父や母に対する苛立ちや悲しみ

ショックは

当時のままで

大人の私から見ても

やはり理不尽でした

 

少なくとも

子どもには子どもの言い分があるよね

というスタンスは感じられませんでした

 

完全に父側・母側だけの都合に感じられました

 

大人の私は

そんな父や母に寄り添うこともできます

 

けれど

子どものわたしにも

同じように

寄り添ってもらいたかったんですね

 

せめてわたし自身には

 

「むかつくよね 悲しかったよね」

 

「がっかりしたよね ショックだったよね」

 

あの当時の気持ちに

悪いもいいもありません

 

ただ子どもだったわたしは

「そう感じただけ」です

 

そしてその気持ちに

当時の父や母は寄り添ってくれませんでした

 

特に父は

当時から不器用で

あまり周囲と調和することは

得意ではないようです

 

その振る舞いは

身勝手と受け取られるんですが

父は父なりに

いつもひっそり苦悩していることも

最近はわかってきました

 

その分

田畑や草木を大切にします

 

それがわたしの父なんです

 

でも

本当はわたしを大切にしてほしかったし

わたしをかまってほしかった

 

怒るよりも

笑ってほしかったし

否定するよりも

ほめてほしかった

 

すごくシンプルな

子どもらしい気持ちを

なぜか大人になったわたしは

「相殺していい」としていました

 

そんなのおかしいですよね

 

目の前に

小さな子がいて

そんなシンプルな愛情を

グッと堪えて我慢していたら

抱きしめたくなります

 

「我慢しなくていいんだよ」って

抱きしめて

安心させてやりたくなります

 

この気持ちも

やはりシンプルなものです

 

それを

ただ自分で

子どもだった自分に

してあげるだけでよかったんですね

 

「悲しかったよね 辛かったよね」

 

「よく辛抱したね がんばったね」

 

そういう気持ちで

子どもだった自分の傷ついた心を

やさしく抱きしめることが

必要だったんですね

 

怒りや正義感というのは

こうした子供のころからの積み重ねが

「違うものを対象に表面化している」ケースがあります

 

特に

大人になって

周りの人に手厳しくなったり

批判が多くなっている場合は

「この気持ちに気づいて」

という奥底からのサインかもしれません

 

外へ外へと

気持や行動を向けることで

「見るべきものから目を逸らしている」状態だと

行き詰まりや

同じところをグルグル回っているような感覚が続きます

 

もし

そんなことがありましたら

是非一度

ご自身の子どもの頃や

そのころのご両親について

ご家族や周囲の人への気持ちについて

静かにふり返ってみてください

 

道徳的なジャッジは

横に置いて

湧いてきた思いに向き合い

「そうだよね」と賛同してみてください

 

それが

どれほどガツガツした感じの気持ちでも

ただうなずいてみてください

 

それほどに

ずっと堪えてきた証なんだと思います

 

ずっと見つけてほしくて

認めてほしくて

待ちかねていたからこそ

ガツガツした感じになっているだけなんです

 

目の前に

そんな小さな子がいたら

ただ涙がこぼれますね

 

同情とか

そんなものではなく

ただただ

大丈夫 もう大丈夫と

言ってあげたくなります

 

自分の中にある

子どもの頃の思いを受け入れると

不思議と

今現在の周囲や自分に対する

味方・感じ方も和らぎ始めると思います

 

何か一つでも

お役に立てば幸いです

 

ここまで読んで下さって

ありがとうございます

 

あなたにとって

明るく健やかな一日でありますように