父はついに80歳を超え
今は庭仕事・畑仕事
あるいはDIYをして暮らしています。
「他にやることがないからだ」と
父は言いますが
花や木々
作物の世話は楽しいようで
「父らしくできる 気持ちのいい仕事」として
日課になってもう何十年になります。
以前は
毎月実家に行っていたので
父の作った季節の果物や花を
うれしそうに見せてくれたものでした。
「すごいねぇ」
「おいしいねぇ」
そう答えると
まんざらでもないように
ちょっとはにかんで
すぐにどっかへ消えて行きます。
うれしいときでさえ
思いっきり感情を出さない人でした。
DIYは好きであるのと同時に
必要に迫られてですから
できれば「したくない」のかもしれません。
そんな父は
長年にわたり
家族の中で
「にくまれ役」に徹してきました。
その性質ゆえに
わかりやすい愛情の交流が不得手です。
自分の意図だけで
暮らすため
周りにいる人の期待に応えるなど想像もしないようです。
その意図は
終始一貫しています。
その意図について
「他人からの意見を受け入れて変える余地」は
あるかもしれませんが
正直なところわかりません。
結果
家族との間には
望まないきれつが入ってしまい
「にくまれ役」として
何十年も過ごすことになったのです。
そのことを
30代くらいまで
ずっと受け入れられずにいました。
年齢をさかのぼるほど
「父親に対する期待」は大きく
小学校の中学年あたりから
わたしと父とのぶつかり合いは始まりました。
実家の歴史としては
長い部類に入ってしまいますね。
そうした父について
最近特に強く感じることは
「人生をかけた”にくまれ役”を
”自ら買ってでてくれた”のでは?」
ということです。
父の性質を変えたい
自分の人生をやりなおしたいと
願っていた10~30代のわたしは
心理学を独学で学び
占星術を学び
スピリチュアルを学びました。
その結果
最近になって行きついた先が
「人生をかけた”にくまれ役”」という
解釈です。
これはデリケートなことですし
異論をお持ちの方もおられるでしょう。
家族の中で
そのように他の家族を
意図せずとも
傷つけてしまう人が居る場合
「そのふるまいを容認する」のは
ある種の「賭け」であるとともに
恐れに直面しなくてはいけない場合さえあります。
それによって
命の危険を感じるのなら
それはいかなるときも
その人を擁護する前に
「まずは自分の身の安全を確保する」のが最優先です。
可能な限り早く
物理的に離れるのが最善です。
ただ
数十年経った今
自分で学んできた
心理学や
スピリチュアルな知識が
互いに補完し合い
ひとつの作品のようにして
浮かび上がってきている感じがするのです。
それが
父の言葉や意図とは別に
「役割を買って出たのでは?」という解釈です。
そう捉えることで
すんなり”何か”がほどけていく感じを
受けるんですね。
これは
「にくむこと」よりも
よほどわたしにとっては
楽で
自然で
スムーズなことでした。
先日
ある動画を見ていましたところ
こんな動画がありました。
それは退行催眠を受けた女性のお話でしたが
虐待する父との関係を
人格交代させて見たところ
「生まれる前に父と交わした約束」を
見たそうです。
その後
その女性がどうなったのかまでは
触れられていませんでしたが
それを見たわたしは
深く考え込みました。
スピリチュアルが好きで
日々そうした情報に触れている方には
もうおなじみな「輪廻転生」を
わたしは受け入れています。
そして
この輪廻転生でかかわる
「親子」は
「ソウルメイトの場合」があります。
(必ずではありません。)
親子が「ソウルメイト」の場合
人生の「難しい課題」を乗り越えるために
「お互いが選んだパートナーの一人」
であることもあります。
(これもすべてではありません。)
また
「課題が難しければ難しいほど
魂にとってはやりがいのあるもので
魂の大きな成長となる」
とも言われているんですね。
そこで
この「輪廻転生」を前提として
人生の課題は何かというと
私の場合
「あるがままの父を
心底受け入れて ゆるす」に尽きるのでは?
と思うようになったのです。
誰でも「嫌われたい!」
とは望みませんよね。
「できれば好かれたい」のが
自然な感覚です。
相手が家族なら
なおのことです。
親に
祖父母に
兄弟や姉妹に
親戚の人に
近所の人に
学校の友達に
先生に
会社の人に
パートナーに
子どもに
「愛されたい」と思うのは
とても自然な気持ちだと思うのです。
わたしも
そうありたいですし
そうあればうれしいです。
けれど
そこには
個性がありますから
家族と言えども
「合う・合わない」もありますよね。
また
生きていくと
「全ての人に
愛される必要はない」ことも
少しずつわかってきます。
そう知ったとしても
最期までこだわりがちなのが
「家族からの愛」ではないでしょうか?
心理学的には
「親子の関係が すべての問題の元だ」
とする説さえあります。
異論はあるでしょうが
それらを踏まえて
わたしの場合
「父は憎まれ役を買って出た」とし
「それを
互いが生きているうちに
受け入れて ゆるすことが課題」と
解釈することにしてみたのです。
「わたしは何も悪くない。」
「父が 変わるべきだ!」
「だって
わたしは子どもだったんだから!!!」
長年このように思っていました。
けれど
そのことがなかったら
心理学も
占星術も
スピリチュアルも
学ぶことはなかったかもしれません。
家族との関係を土台にして
必要に迫られ
学んできたことは
わたしにとって
杖となり
財産にもなりました。
つまり
家族のお蔭です。
そして 今
「父へのこだわり」よりも
「父が人生をかけてわたしに伝えようとしてきたこと」のほうが
「はるかに重要」な気がしてきたのです。
そうしてみると
ちょっとわかったことがありました。
父は
「人の期待に応えるために」生きているのでありません。
わたしも
そうです。
父は
「立派な父親になるために」生きているのではありません。
わたしも
そうです。
父は
「素晴らしい人になるために」生きているのではありません。
わたしも
そうです。
そもそも
「父が”悪い”のか?」
たぶんこたえは
「No」だと思ったのです。
ただ
父は父として生まれ
父の個性で育ち
父の思いで家族を作り
父の意図で家族と暮らしてきただけでした。
「人は矛盾した生き物で
それはある面では
ちっとも美しくもないし
誰にも喜ばれもしないだろうけれど
同時に
誰にでもあてはまる
ありふれた 自然なこと」をしているだけなのかなと。
「あるがまま」を否定されることほど
つらいことはありません。
多くの人が
「せめて身内には
ダメな自分でも愛してほしい」と
願うのではないでしょうか?
わたしもそうです。
弱くて
ずるくて
卑怯なところを
自分の中に見つけるたび
「こんなわたしでも
ヤッパリ愛されたい」と思います。
そして
それを叶えてくれる家族には
心から感謝しています。
みんな ありがとう。
それなのに
そんなわたしが
どうしたら
他の人に
父に
「変わらなくてはいけない!」なんて
言えるだろうか。
「そりゃないゼ ベイビー!」です。
すべては
「そりゃないゼ」なのです。
たくさんの
素敵な説をしって
どれほどうっとりし
自分なりにアレコレ工夫したとしても
その根っこに
「わたしはいいけど あなたはダメ!」があるのなら
「いつまでも欠けたままの土台を選んでいるわたし」
と同じことですよね。
それでは
「いざとなるとグラグラ」するのも
当然です。
またも
「そりゃないゼ」です。
そんなこと
まったく望んでいません。
わたしの望みは
ちょうどいいバランスをとりつつ
いつも何かを楽しみながら
軽やかに
自分らしく生きることです。
グラグラは
求めていません。
だから
おとうさんは
ありのままのわたしを
受け入れなくてもいい。
それでもわたしは
ありのままのおとうさんを
ありのまま受け入れよう。
なぜなら
おとうさんと過ごしたすべての時間も
大切なわたしの一部だから。
何一つ
隠すことのない
わたしの一部だから。
そうなんですよね。
父との時間を否定しているのは
他の誰でもない
「わたし」。
父を否定することは
わたし自身を否定するのと
同じことなんですよね。
もういいじゃない?
十分”味わった”んじゃない?
はい もう十分味わいました。
おとうさん ありがとう。
ひっしになって
否定して変えようとしていたわたし。
おつかれさまでした。
ありがとう。
わたしも
父も
「ありのまま」を受けれてほしいし
「ありのままで」生きていくことを
ただ応援してほしいだけなんだと思います。
この記事を
少しでも楽しんでいただけたら
うれしいです。
それでは
素敵な夜と朝を☆