飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

過去を振り返る 手放す作業について

前回の記事では

「手放すための作業 その2」

としまして

過去を自分から確認しに行く方法を

ご紹介しました。

 

(気になる方は

 こちらからどうぞ♪)

cocokara2018.hatenablog.com

 

ここでご紹介した方法が

なんになるのかというと

「なんにもならないかもしれません」

 

ただ

書いて眺めると

自分の外側に

「手に取って」

「目に見える形」となって

「自分の抱いていたイメージ」や

「自分の思い」が

「存在する」だけでも

扱いやすくなるはずなんですね。

 

そういう作業をせずに

頭の中で

感情や出来事を

アレコレとこねくり回したり

見失ったりしていると

「”あたかも”捉えどころのない

 自分の一部」のように

勘違いしてしまいます。

 

実際は違いますよね。

 

感情や出来事は

「本当の自分ではない」

「別もの」です。

 

言うなれば

感情や出来事は

「服」と同じです。

 

自分が「選んだもの」を

「着ている」だけです。

 

服は

自分で選べますし

気に入らなければ

別のものに着替えられます。

 

年齢が変われば

サイズはもちろん

必要なものも変わりますし

好みや流行も変わりますよね。

 

ちなみに

わたしが10代のころは

アムラーとか

ハマダーとかが

流行していました。

 

女の子は

厚底サンダルや日焼け

ギャルメイク

ピタっとしたチビT(てぃ)や

ルーズソックスが好きでしたし

男の子は

腰履きの

脱げそうに見える

ルーズフィットしたデニムが

大流行りでした。

 

あるいは

今や世界中にいる

コスプレイヤーは

アニメやゲームのキャラクターを

衣装やメイク

カツラや小道具を使って

再現することで

「その世界観を

 リアルに楽しむ方法」として

有名ですよね。

 

さて

服はこのように

自分で選べることから

「変化しやすいもの」でもありますから

ご家庭の事情や好みもありますが

多くの人が

「小学生のころ」着ていた服を

「大人になっても」愛用しているケースは

ゼロではないかもしれませんが

非常に珍しいと思うのです。

 

「もったいない」の精神は

深く共感しますし

大切にしたいものですが

同時に

純粋に着なくなったのなら

必要とする人にあげたり

リサイクルに出したりと

「なにがしかの方法で手放し」ますよね。

 

そうでないと

自宅が服だけで

溢れてしまいますし

毎日を暮らすには

適度な空白も必要ですから

よほどのコレクターでもない限り

「服だけに場所を割く」のは

ベストな在り方とは言いにくいものです。

 

服の側からしても

「ただしまってあるだけ」よりも

リサイクルに出されて

「他の誰かに着てもらえる」ほうが

きっとうれしいでしょう。

 

かつて愛した服は

写真で見つけた時

「あ~ これ好きだったわ~」と

懐かしがるくらいが

ちょうどいいのではないでしょうか?

 

感情も

本来であれば

服と同じように

「その場その場で味わい」

「味わったら手放す」を繰り返せば

溜まることはないでしょう。

 

ところが

感情の場合

工夫さえすれば

それも可能ですが

何もせずに過ごしてきたことで

「歴代の感情が

 全部タンスの中(心)にある!」

なんてことになりかねないんですね。

 

「歴代」と「全部ある!」って

このイメージ

すごいですよね。

 

トランクルームや

納屋くらいじゃ

とても収まりきらない感じさえします。

 

以前もお伝えしましたが

感情の場合

見事な圧縮率で

一見「無いように」見えるのが

ポイントです。

 

けれども

心理学的にみても

一見無いようにみえるものが

積み重なって

現在の感情や思考パターンに

影響を与えているとされていますし

ご自身でもそのことを

うっすらとでも感じている方が

多いのではないかと思うのです。

 

そうしたケースの根っこにあるのが

「自分の持っている

 イメージ像」や

「母親への印象や思い」に

出やすいようなんですね。

 

わたし自身

母への思いに

「好き」や

「ありがとう」

「育ててもらった」

「大事にしてもらった」

という気持ちは意識できても

なぜか

「嫌い」や

それにかかわる否定的な感情は

直視できなかったんですね。

 

それはおそらく

母の苦労や悲しみ

怒りを近くで見て育ったために

幼いころから

「母は大切にしなくちゃいけない人」

「否定したらいけない人」

というインプットを

無意識にしてきたからだと思うのです。

 

反抗期ですら

母への反抗は

父へのそれとは違い

全力でぶつかり合うことが

どうしてもできませんでした。

 

どこか手加減をして

どこかで遠慮していました。

 

育ててもらったという気持ちや

母の愛情を知っているからこそ

母の人間らしさ

時折出る母の身勝手な思考や

押し付けのようなやり方に

「どうしていいかよくわからなかった」んです。

 

その結果

「全力でぶつかり合いたくない」ために

家の外へ外へと逃げるようにして

出ていきましたし

家族と顔を合わせても

「関係ない」という

白けた態度か

苛立ちの態度の

どちらかになっていました。

 

そうした思いに気づけたのは

40代。

 

自分で自分の中になる

扱い難い感情を

なんとか手放したい

気持ちの整理をしたいと

心底思うようになり

ご紹介したような形で

過去を逐一書き出すようになったのが

キッカケです。

 

この手法をとったことで

わたしは

そもそも

父だけではなく

母に対しても

たくさんのウップンがあったことを

やっと正面から見つめることができました。

 

母の言動によって

どれほどたくさんの影響が

自分に及んでいたか。

 

過去を振り返ることで

その当時の自分が

そのことに

どれほど腹を立てたり

どれほど寂しがったり

どれほど重苦しく感じていたかを

思い出すことができました。

 

ここで終わっていれば

ただひたす辛いだけの

作業で終わっていたかもしれません。

 

そこに

母の年齢を書いたことで

状況は違っていました。

 

母の年齢は

単なる数字に過ぎないにもかかわらず

自分が長らく見落としていた

「母」という

「役割」ではない

「一人の女性であるその人」の姿に

目が留まる様になりました。

 

当たり前ですが

両親といえども

「両親」となる前に

「一人の人」として

歴史があるわけです。

 

子ども時代

 

少女時代

 

青年時代

 

中年時代

 

その途中で

「母」という役割を

「初めて請け負う」んですよね。

 

そう。

 

「そこから

 初めて母になる」ということを

わたしはそれまで

ただの一瞬も

真剣に考えたことがありませんでした。

 

母は

「母なんだから」

「だったら

 他のお母さんみたいに

 これくらいしてほしい」

とアレコレ思うばかりでした。

 

これも仕方がありませんよね。

 

子どもですから

そう思うのは

自然なことです。

 

ですから

「子どもだったころ思ったこと」は

何一つ

「間違い」でもありませんし

「おかしい」わけでもありません。

 

当時の自分の思いを

「打ち消す必要はありません」

 

それはそのままで

いいのです。

 

ただ

その横に

「あ この時

 ”お母さん”になって

 〇年しか経ってなかったんだ」

と気づいたことや感じたこと。

 

自分がずっと思っていた

母に対する「何か」

 

ギューっと強く握りしめたために

小さく狭くなっていた「何か」が

フワっとゆるんで見えたことを

「新たに追加して並べればいい」

と思ったのです。

 

そして

自分を生んだ母の年齢と

その年齢だったころの自分の

イメージや思い出を併せて振り返ることで

「そんなの できないよね~」

「仕方ないよ~」と

母に対して

初めて本当に共感したり

理解ができたり

当時のその年齢だった母に

心底から寄り添う気持ちが

じんわりと湧いてきました。

 

その年齢の自分が

「いかに幼かったか」を

よくわかっているからです。

 

大人であろうとしながらも

そうではない自分がいて

そういう自分をなんとか

「通用する自分に変えよう」と

自分らしさよりも

「役割の自分」を優先する

「苦しさや辛さ」を

今ならやっと理解できると思いました。

 

この時ですね。

 

「年を重ねてよかった」と

心から思ったんです。

 

この作業を通して

それまで細く狭かった視界が

グーっと大きく開けたように思いましたし

お蔭で見える景色が増えたことで

それまでは気づけなかったものにも

気づけるようになったと思います。

 

なによりも

母と自分の間に

「ハッキリと区切り」をつけ

「別々の人生でいい」と

心底から感じるようにもなりました。

 

母に喜ばれなくても

母に認められなくても

別に気にしなくていいんだと

やっと思えるようになったんです。

 

母が反対しても

嫌がったとしても

わたしはわたしの行きたい道を

行けばいいんだと。

 

それは何一つ

親不孝なんかじゃないし

身勝手でもないんだと

思いました。

 

母が母の人生を

自分で決めて生きてきたように

わたしも私の人生を

自分で決めていきていけば

それで充分なんだって

安心できました。

 

母がいつも「善ではない」し

それでいい。

 

母がいつも「すべてを知っているわけでもない」し

それでいい。

 

わたしはわたしで

生きていけばいい。

 

これはわたしだけのことで

他の方は

そんなことは

とっくにお気づきかもしれません。

 

それでも

もしかしたら

この記事や

前回の記事を必要とされる方が

いらっしゃるかもしれない

そう思って書きました。

 

今後

更に詳しい形で提供できるような

ワークショップを

オンライン上でやってみたいなと

思っています。

 

ちょっとドキドキですが

よろこんでいただけるよう

いま準備中ですので

よろしければお楽しみに。

 

詳細が決まりましたら

こちらでご案内しますので

もしご興味のある方は

ご参加くださいね☆

 

それでは

素敵な夜と朝を

お過ごしください。