飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

種を受け取る日々 子どもの頃に見た母の姿

6月の末日になりますと

多くの神社さんで

「夏越の大祓」神事が

執り行われます。

 

夏越の大祓神事とは

一年の上半年間に

心身や家・屋敷についた

罪・けがれ・災いを

祓い清めるための

ご神事です。

 

気になる方は

お近くの神社さんに

お問い合わせしてみてくださいね。

 

こうしたご神事に

ご家族そろって

参加される方たちを

見かけたりしますと

微笑ましくなりますし

「お孫さんにとって

 ”種”になっているだろうな」

とも思ったりします。

 

最近の住宅事情ですと

違っているかもしれませんが

わたしが子どもだったころ

神棚と仏壇のあるご家庭は

珍しくありませんでした。

 

わたしの実家もそうで

神棚も仏壇もあります。

 

子どもだったころ

その神棚に

母が手を合わせて

時々何かを唱えている

という場面に

よくでくわしました。

 

それは

お願い事ではなく

日ごろは聞かないような

なじみのない言葉で

しかも

ぼそぼそと

小声でつぶやくので

何をいっているのかも

あまりわからなかったんですね。

 

ただ

それは毎回

同じような言葉と

アクセントだったので

「決まり事」ということだけは

なんとなくわかっていました。

 

母はわたしが見ているのに

気づいても

特に説明も

教えることもなく

終わったときに

こちらを見て

ニコっと笑うだけでした。

 

こどもだったわたしも

何をしているのかとも

聞かないで

ただその時間が終わるのを

静かに待っていました。

 

今思えば

あれは「祝詞」を

奏上していたんです。

 

わたしが自分で

祝詞を覚えたのは

30代後半

桜井識子さんの

著書に出会ってからのことです。

 

www.kadokawa.co.jp

 

こちらの書籍をきっかけに

識子さんの記事を読むようになり

おかげで

神仏の存在が

急に身近なものに感じられたわたしは

お参りをする時に

祝詞を奏上すると喜ばれる」

と知りすぐに覚えました。

 

その文面を初めて見た時

最初に浮かんだのが

「あの頃の母の姿や言葉」です。

 

お蔭で

あっという間に覚えてしまいました。

 

般若心経を

なんとなく覚えているのも

子どものころ

お盆やお正月

お彼岸などに

何度も法要に参加していたからです。

 

子どもだったころ

意味はわからなくても

興味もなくても

家族や

周囲の人がしていたこと

連れて行ってもらったこと

やってもらったことが

「意外なタイミング花開くこと」

ってありますよね。

 

そうした思い出が

あるときは

「才能」や「実用」にもなり

あるときは

「思い込み」や「枠」にもなるなんて。

 

あのころ

将来そんなことになるなんて

何一つ

思いもしませんでした。

 

誰の中にも

そうした種が

きっといくつも眠っていて

いつもは忘れているだけなんですよね。

 

小さなお子さんを連れている方をみると

いつもなんとなく

そんなようなことを

思ってしまいます。

 

今年は

各地のご神事も

少しずつ開催の方向で

進んでいるとも聞き

遠方のことでも

なんとなくうれしくなります。

 

もちろん

地域の実情に合わせた

「保留」や「中止」も

大切な判断ですし

尊重されるものですが

同時に

この2年ほど

様々な催し事が中止となり

いつもならそこにあるはずの

「賑わい」の代わりに

「静けさ」を

何度も目にしてきたことが

そろそろなにか

「違う形で芽吹いてもいいころかな」とも

感じるようになってきました。

 

それは以前と全くおなじ形を

なぞるということではなくても

「トライ&エラー」を前提に

地域で

地方で

全体で

様々な分野で

「進んでいこう」とすることで

なにか今までにはない

今までとは違う

素敵な花となって見事に咲く可能性も

大いにありますよね。

 

わたし自身も

今をしっかり楽しめるよう

自分の気持ちと共に

1つずつ形にしていきたいと思っています。

 

今回の記事を

少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

 

それでは

素敵な夜と朝をお迎えください☆