飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

自分で選んだ道を歩く 進路と自分らしさの狭間で思ったこと

みなさん

いかがお過ごしですか?

 

さて

物事の感じ方 とらえ方は

思い出した瞬間の

「気持ちのベクトル次第」だなと

最近は感じることが増えました

 

今の私のベクトルは

1年前とも

3年前とも

うんと遡って20代

10代とも違います

 

10代・20代だったころ

 

「もっと普通にしなさい」

「○○になれるといいね」

 と周りの大人に言われることがありました

 

「普通」と言うとき

「他人に対するその人自身の願い」が出ているのかも

とこのごろでは思います

 

あの頃はそれがわからずに

「モヤモヤ」していました

 

人の数だけ

願いはありますね

 

わたしの願い

 

相手の願い

 

 

それぞれ違う願いがあるのは

ごく自然なことです

 

それを知らず

自分と他者を分けられず

「他の人の普通」に添えない自分に

きゅうくつな思いをしていました

 

「わたしはわたしのままでいればいい」

という考えを知らなかったんです

「あなたのため」は誰のため?

 

二十歳前後になると

進学や就職など

将来についての具体的なことを

大人と子どもで話し合う機会がグンと増えます

 

やりたいことがある人も

コレというものが浮かばない人もいますよね

 

成長は個人差がありますし

その速度は一定ではありません

 

大人たちも

それは十分に知っていたと思います

 

それでも

今までの日本のシステムでは

みんな一斉に

同じタイミングで

次へ次へと進むしかありませんでした

 

その中で生きる多くの人が

そのシステムのタイミングに合わせることを

優先しがちでした

 

そのリズムに合わせられず

何も決められなかった当時の私は

矢継ぎ早の質問に

いつまでも真っ白なままの将来像に

恥ずかしさや情けなさを感じていました

 

とにかく

何か決めないといけない

 

自分の気持ちが空白でも

とにかくどこかへ進まないといけない

 

押し出されるようにして

次を選ぶしかありませんでした

 

口を開けば親子喧嘩でした

 

今になれば

あの頃の両親の気持ちを

なんとなくでもわかる気がします

 

信じてただ応援するって

慣れない内はソワソワします

 

「普通」

 

「理想」

 

誰かを思う時ほど

「相手のこと」の中に

「自分の願い」が絶妙に混じって

見事に同化してしまう

 

けれども

その根っこにあるのは

とてもピュアな思い

 

「笑っていてほしい」

 

「幸せであってほしい」

 

人の数だけ

幸せの形や在り方は違います

 

同じじゃなくていい

 

違っていてもいい

 

わたしがわたしらしく

 

あなたがあなたらしく

 

元気に輝いていられるなら

それこそが

ほんとうの幸せ

 

そうやって割り切れたのは

30代後半になってからでした

 

 

それまでも

両親の願いに添うたことは

ほとんどありませんが 笑

 

両親にしたら

普通の願いだったと思います

 

社会のリズムに合わない自分を知りながらも

なんとか合わせようと

ずっとトライし続けてはみました

 

何度やってみても

最終的に添えませんでした

 

添えなくても

わたしはわたしなりに

今日に感謝したり

幸せを感じたりしています

 

母は最近になって

「それで満足することにした」

と言っていました

 

その言葉に

ホッとしたのを覚えています

 

おかあさん

ありがとう

 

 

わたしのことは

わたしが決める

 

そう覚悟しておけば

時には思わぬギフトが届くこともある

ということを知った瞬間でもありました

 

それでは

ここまで読んでくださったあなたに

 

ありがとう!