あちこちで
アジサイの花を見るようになりました。
そういえば
赤紫っぽいものと
青いものとあるアジサイですが
花の色は土壌の性質で
変わるというのは
有名なお話ですね。
土壌が
酸性に偏ると「青」
アルカリ性に偏ると「赤紫」に
なるのだとか。
自然の面白さを
感じますね。
さて
前回の記事で
「不安や恐れを手放すといいですよ」
という記事を書きました。
(興味のある方はこちらからどうぞ)
こちらの記事の冒頭では
洗濯物を干すシーンの回想から
始まります。
このシーンのわたしは
「のんびり」干していたので
最初にちょっと浮かんできた
気持ちに流されることもなく
「あ そういえば」
という感じで
すんなりと物事は展開しました。
ただ
これだけ読んでいても
「たぶん伝わらないこと」があると思い
今回の記事とします。
その「伝わらないこと」とは
「不安や恐れを手放して
本来の自分に戻る」には
「ある”前提”を
満たしている必要がありますよ」
ということです。
ちなみに
「本来の自分」というのは
ちょっと語弊があるでしょうが
わかりやすく例えると
「生まれたての赤ちゃん」です。
何一つジャッジしませんし
環境を変えようともしません。
ただそこにいて
目の前にあるものに
輝くような目を向けて
好奇心を抱き
うれしそうに笑ったり
お腹が空けば泣いたり
寝たりしているだけの
明るく澄んだ存在です。
自分が何もできなくても
何一つ自分を卑下しませんし
誰のことも否定しません。
日々は「今この瞬間」が
あるだけです。
過去も未来も
考えません。
そういう状態で
自分を愛し
人を愛し
世界を愛しきっていて
無限のエネルギーや
可能性がつまっている存在。
それが
「本来の自分」です。
(ちょっと語弊はありますが
わかりやすい例えとして
ご理解ください)
そんな「本来の自分である」
前提とは
「頭の中でおしゃべりしない状態」
「頭の中が”静かな”状態」を
「(意識して)続けること」が
「平常時の基本スタンス」ということです。
これは
「え そんなん普通やし」
という方もいらっしゃると思うのです。
そういう方は
おそらくですが
本を読む時
「文字を”目で見ている”だけで
頭の中は静かなまま」であって
「頭の中で”音読する”ことは無い」
という方だと思います。
「そうだよ」
という方は
どうかそのまま
これからも
今までどおり
邁進してください。
一方で
「え 音読してるわ」という方や
常に何かを考えたり
頭の中だけで「独り言」を言ったりと
「始終 ”何か”しゃべり続けている」のが
当たり前という方は
この先を読み進めていただけたら
と思います。
この違いは
純粋な個性ですから
いい悪いとは違います。
ただ
「スピリチュアルなことに
感心のある」方や
「内面を成長させたい」方
「新しい自分に会ってみたい」方にとっては
この前提が
ちょっとした発見になるのでは?
と思います。
というのは
わたし自身がそうだからです。
そういう人にとっては
まず「なにも考えない」で暮らすには
慣れるまで時間がかかるでしょう。
なぜなら
そういう方は
子どもの頃から
ずっとそうだったのでは?
と思うからです。
なぜそうなるのかは
わかりませんが
わたしの経験では
内向的な性格と
リンクしているようにも感じます。
こうして積み重ねてきた
「始終 頭の中で
何かをしゃべり続けている状態」を
卒業することで
「なにを得られるのか?」
それは
スピリチュアルな訓練?というか
内面的な成長を求める際に必要な
「土台・基礎を持つこと」に
当たるようなんですね。
というのは
スピリチュアルな成長や
内面の成長は
全体の傾向として
「”感覚”を優先させる」
「感覚で”わかるように”なる」
「”直感”に従う」が基本ですから
これらのフレーズは
とにかくあちこちで見かけます。
感覚の中で
わかりやすいのは
外界の刺激による反応
「五感」ですが
その五感も
せわしなくしている時などは
「無意識に無視している」ことがあります。
風が肌をかすめる感じ
花のかすかな匂い
口の中でシャクっと割れる触感
じんわりとしたさわやかな後味
刻一刻と変化する夕暮れの色合い
暑さや寒さ・湿度の変化
そうしたものは
自分が「せわしなくしている」と
驚くほど入ってきません。
忙しい時期に食べたものは
ほとんど覚えていない
という経験は
よくある話ですよね。
この世界に
物体として在るものから
発せられている
音や触感ですら
人の五感は
「閉じること」ができます。
それを踏まえてですが
感覚や直観というのは
いうなれば
「内側に届くもの」です。
物体はありませんから
とても繊細です。
こうした軽やかで
「繊細なエネルギーをキャッチしよう」
「わかろう」
と思うと
更に神経を研ぎ澄まして
「静けさの中にいるのがベスト」
というのは
なんとなくでも伝わりますでしょうか?
これはなにも
山奥にこもって
暮らしましょう!
ということではありません。
そうではなく
人の中で暮らしていても
自分が選んで
自分の内側を
意識的に変えていけば
「遠からずできる日がくる」
ということです。
そうはせず
「どれくらい時間たったかな?」
「お昼 何食べよう」
「まだ給料日まで時間あるのに」
「そういえば アレ忘れてた」
こんな感じで
自分の中を
「思い」
「言葉」
「情報」
「音」
で満タンにしているのが
「始終 頭の中で”何か”を
しゃべり続けている状態」です。
外から受けるはずの五感さえ
スルーできるわたしたちですから
内側のささやかな感覚となれば
「頭の中でしゃべり続けている」と
「ますます遠のく」のが
なんとなくでも
伝わるのでは?と思います。
ちなみに
「直感や感覚をわかろう」とするとき
「ん?これってこういうこと?」
「確かこう言ってたよね?
それかな?」と
こんな具合に
理論でわかろうとすることも
「頭の中のおしゃべり」になるそうです。
ところで
新約聖書のヨハネの福音書1章1節は
「初めに言(ロゴス)があった」
という書き出しでスタートします。
この「初め」は
旧約聖書のスタート
つまり「天地創造のスタート」を示す
とされているのですが
この「言」とは
「言葉」を意味しているそうなんですね。
ところ変わって
日本でも「言霊」という表現を
よく見聞きします。
こうしてみると
洋の東西を問わず
「言葉には
”それそのもの”に エネルギーがある」
という認識が
古くからあったのかなと思うんです。
とすると
「自分の頭の中」は
「プライベートな領域」ですが
始終何か「言葉や思いを発している」というのは
「どうもベストではなさそうだ」
という感じがしてきませんか?
身近な人が
何も言わず
黙っていたとしても
イライラしていたり
悲しんでいたり
というのは
存外周囲に伝わるものです。
それは
「その人の思い」が
黙っていても
発散されているからです。
それが「自分が頭で思っていること」
となれば
自分自身に影響があるのは
自然なことですし
なにより
「内面を成長させたい」
という志を持つ方にとっては
「不安や恐れを手放すこと」と
並んで
「頭の中を静かにすること」は
欠かすことのできない要素では?
と思っています。
そうして
静けさの中にあるからこそ
キラっと光る感覚や
そっと訪れる何かの合図にも
ふと目が留まるようになるのではないでしょうか?
今回は
かなりスピ度が高めな記事でした。
何か少しでも
楽しんでいただけたらうれしいです。
それでは
素敵な夜と朝をお迎えくださいね☆