飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

矛盾を知り、無知を知って 「内なる知らせ」を見逃さずに「謝る」意味

いま

とある講座に参加して

手書きのワークをしています。

 

この講座のワークをして

わかったことがありましたので

シェアしてみたいと思います。

 

自分の記憶や感情を

しっかりと掘っていく作業を

しているのですが

どんな記憶や感情も

最初は

「ぽっと湧いてくる

 個別案件」です。

 

それが次第に

「芋づる式」になったり

「飛び石的」になったりして

縦横無尽に

出てくるようになります。

 

波に乗ると

「そういえば」

と驚くほど「ささいな出来事と感情」も

次々に湧いてきます。

 

その量は

まるで四次元ポケットで

「どこにそんなものが」

と自分でも

呆れるくらいです。

 

出てくる人は

自分や家族だけではなく

当時近くにいた人全員ですから

中にはここ何十年も

思い出しさえしなかった

小学生時代

幼稚園・保育園時代の人も

当然います。

 

その量に比例して

「書くエネルギー」も

相当使うわけで

そうなりますと

「出すものがない」のではなく

集中が切れて

「今日はここまで~」となり

書き終えた後は

クタクタになります。

 

こうして書いたものは

歴史書ではありませんので

整理もせず

あちこち時代も飛びますし

感情も怒ったり

悲しんだりと

振り幅があります。

 

それをペラペラと眺めて

あることに気づきました。

 

それは

自分にとって

「怒り」であったことや

「悲しかった」ことを

他者に対しては

「そんなことくらい」や

「いつまでそんな

 昔のことにこだわって」

と「批判する対象」として

扱っているのです。

 

これは「矛盾そのもの」

 

でも

どちらも

「そうした気持ちがある」

のは本当なわけで

これはなかなか

自分でも驚きました。

 

「自分はよくて 他人はダメ」は

「自分勝手」の最たるものとして

嫌がられる性質です。

 

それを

意識しないまま

意識できないまま

「ずっとナチュラルに

 使ってきた」なんて。

 

ガーン。

 

しかも

その矛盾に

「疑問」を抱く瞬間もなく

わたし「個人」は

「1つの存在」としてあって

自分の中では

「気持ち悪さ」すら

無いなんて。

 

ガーン。

 

長らく

独学ながらも

心理学やら

スピリチュアルやらを

学んできた身としては

ショックとともに

非常に興味深く感じましたよね。

 

誰でも

視点には「偏り」があるものですし

自分もそうだろうとは

感じていました。

 

ただそれが

ここまでデカデカと

堂々とした矛盾のまま

目の前にドーンと並べられると

もう笑うしかありません。

 

そして

このことは

「間違い」でも

「悪」でもありませんし

ましてや

「相殺」したり

「修正」したるする必要も

ないんです。

 

ただ

「わたしはその時

 そう感じた」

というが大切なんですね。

 

ここ重要です。

 

決して

「自分の感情を

 無視しない

 区別しない」が

ポイントです。

 

自分が思っている以上に

「わたしって

 そういうとこあるんだね」と

ガックリしても

「その時のわたしは

 それでいい」んです。

 

そういう

不都合に「見える」わたしを

修正しようとしたり

相殺しようとしても

「そこにいること」は

変わりないんですね。

 

だったら

その姿のまま

ありのままで

「そこにいたのね」と

優しく迎え入れてあげたほうが

物事がスムーズに進んでいきます。

 

もし自分が山の中で迷子になって

泥だらけで

あちこち破れた服で

自分でも汚れていて

みっともないと思っていても

そんな自分を

「よく来たね」と

寄り添って喜んで迎えてくれる人がいたら

それだけで

ホッとして嬉しくなりませんか?

 

感情や記憶も

同じですね。

 

「いい・悪い」と

ラベルを貼る必要は一切なくて

「ただ”そうだと知る・認識する”」方が

ずっと大切なんですね。

 

黒いわたし。

 

濃いグレーのわたし。

 

茶色いわたし。

 

赤黒いわたし。

 

濃い紫のわたし。

 

そういうわたしもいますが

その横には

 

ピンクのわたし。

 

パステルブルーのわたし。

 

エメラルドグリーンのわたし。

 

カナリアンイエローのわたし。

 

ホワイトゴールドのわたしも

いるわけです。

 

絵の具の色が

びっくりするほど

たくさんあるように

わたしの感情も

「たくさんある」

 

すると

それはつまり

「他の人にとって」も

ある程度

「有効な視点の持ち方」にも

なるのでは?とも思いました。

 

自分が

忙しさや

うまくいかない苛立ちから

気安く使ってしまった

言葉や態度が

相手にとって

どういうものになり得るのか。

 

そして

自分がしていた批判が

相手にとって

「どれほど的外れなものだった」か。

 

あるいは

自分がしてしまった

アレコレについて

相手が受けた傷の深さに

「自分は誠実に向き合ってこれたか」

 

その場その場の

小さく狭かった視界が

急にグワーンと

大きく広がる様に感じました。

 

何も解決していませんし

外側のことは

何一つ変わっていないんですよ。

 

ただ自分の

「無知」を知っただけです。

 

それなのに

視点・視界が変化するなんて

自分を知ることで

かえって

「周囲がよく見える」なんて。

 

そして

もう一つ感じたこと。

 

それはちゃんと

「謝ろう」と思いました。

 

直接である必要は

ないんです。

 

心の中で

ひっそりでいいんです。

 

相手との

「現在の」関係や状態は

関係ありません。

 

「謝る」ことは

それくらい

必要なことだから

「そうしたいから」

そうするだけです。

 

というのも

掘り下げる作業中

何度も出てきたワードが

「謝ってほしい」だったからです。

 

相手は様々でしたが

共通して

「わたしが傷ついている」

「傷つけられた」と感じたときに

出てきたんですね。

 

これはおそらく

「生きているからこそ」

そう思うのだと思います。

 

「亡くなった仏さんは

 謝ってほしいと望んだりしない」

と聞いたことがあります。

 

「死」が

既に大きな区切りになっているため

そうした要求は浮かんでこないようですね。

 

ひるがえって

「生きているわたしたち」にとって

「謝る」という行為は

とても重要です。

 

自発的な

心からの「謝る」であるとき

相手の状態によらず

「世界に”ケジメ”として

 作用する力」が発揮されるようです。

 

「相手がどう思うか」

「相手がどうするか」や

「許されること」とは

別の話ですから

安心してください。

 

「ただ申し訳なかった」と

自ら進んで謝る心は

「相手の心」にしっかりと届きます。

 

わたしが知るところでは

「祈り」は

距離を超え

時を超えて

「相手に届く」とされています。

 

「謝罪」も

同じだそうです。

 

直接相手に言わなくても

いいんです。

 

思い出した時

「相手の傷ついた顔」が

チラつくのであれば

心から

「○○さん

 あの時

 あんなことをして

(あんなことを言って)

 ごめんなさい」と

謝ってみてください。

 

あるいは

「あの時

 ○○しなくて

 ごめんなさい」

 

イメージの中で

心の中で

ひっそり相手に向かって

することですから

やったところで

目の前の誰にも

何の影響もないように

感じられるでしょう。

 

あるいは

今もその相手と

交流があり

今のその相手は

「なんとも思っていない」と

知っているケースもあります。

 

それでもなお

自分の中で

「相手の傷ついた顔」が

チラつくのなら

現在の状態は

横に置いて

「心の中で謝る」ことは

意味のあることだと

わたしは思います。

 

それは「罪悪感を持て」

ということではありません。

 

そうではなく

むしろ

一つの「内なる知らせ」として

受け取るといいのかなと

思うからです。

 

「今の自分」だからこそ

「気づけた」ことかもしれません。

 

「今のタイミング」だからこそ

胸に迫るものがあったのかもしれません。

 

つまり心から

「悪かったな」と

感じられるようになった

「今だからこそ」

そのことと向き合う「好機」として

「その顔が浮かんでくる」

という解釈です。

 

わたしも

何度かそのようにして

謝ったことがあります。

 

心の中で。

 

時には

勇気を出して本人に。

 

すると

中には

罪を認めて「謝った」ことを

相手に「そのまま」

受け入れてもらえ

その上で

「許される」こともあります。

 

その時の

なんとも言えない

厳粛な気持ち。

 

そして

奥底から湧き上がる感謝の念。

 

それは

年齢も

事の大小も関係がありません。

 

ただ「あやまってほしかった」と

強く思っていた自分と出会い

自分が今までしてしまった

アレコレに対して

「しなくてはいけないこと」

「自分ができること」を

しただけなんですが

結果として

許されたとき

それまで以上に

深く反省しましたし

「自分が生きている内に

 形にできてよかった」

とも思ったのは事実です。

 

あくまでも

「自発的である」ことが

大前提ですが

その前提の上で

「謝る」とき

長年続いていた「何か」は

確かに「終わりを迎え」ますし

場合によっては

新たな「何か」となって

次の展開へと進んでいくことも

あります。

 

謝ることは

講座とは直接リンクしませんが

心に残ったので

一緒にシェアしました。

 

講座は始まったばかりですが

これからも楽しんで

続けていこうと思いましたし

シェアできることは

進んでみなさんとシェアしていきたいと

思いました。

 

なんだか

上手にはまとまらずでしたが

なんとなくでも

伝わるものがあるとうれしいです。

 

それでは

素敵な夜と朝をお迎えくださいね☆