飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

「それは わたしが本当にそうしたいからです」 わたしの行動基準

「優しい」と「親切」を

なんとなく混同していたのですが

その違いについて

気づいたことがありましたので

記事にしてみます。

 

生きていると

「優しいね」とか

「あの人は親切だから」とか

聞いたり

口にしたりします。

 

なにより

もし「優しい」と言われたりしたら

こそばゆいけれども

悪い気はしませんよね。

 

しかし

実際のところ どうでしょう?

 

「優しい」の本質について

自信満々に

「わたしはわかっている!」とは

なんとなく言いにくいかもと

思いました。

 

わたしの場合

話し方や物腰など

「対応がソフトな人」のことも

「”優しい”に分類」していたからです。

 

ちなみに「優しい」を

辞典では

〇他者に対して思いやりがあり、情が細やかである。

〇性質がすなおで、しとやかである。温和で、好ましい感じである。

〇悪い影響を与えない。刺激が少ない。

などと記載されています。

 

こうなってくると

「対応がソフト」という分類も

「あながち間違いでもないかも」

という気がしますが

そこにわたしは

「有る点を加える」と

もっと理解しやすいと思いました。

 

それは

「”優しい”とは

 その根底に ” 軽やかで 温かい愛 ” が感じられ」

という一文です。

 

対応がぶっきらぼうで

ちょっと見には

粗野な態度をとることもあるけれど

「根は優しい人」も

いっぱいいますね。

 

それはつまり

表に出ている言動そのものの

正しさやスマートさ

フィット感よりも

その根っこにある「温かく輝くもの」を

しっかりと感じ取れる瞬間があり

そのことを「優しい」という言葉に

変換していると思うんです。

 

反対に

どれほど「対応がソフト」でも

その内容が杓子定規で

正しいかどうかだけで

四角四面だったら

「優しい」とは感じませんよね。

 

また もう一つのキーワードである

「親切」との違いも

ここで腑におちました。

 

ちなみに

「親切」を辞典で調べますと

〇情が厚いこと。好意を持って人のために尽くすこと。

〇相手の身になり、その人のために何かすること。

とあります。

 

つまり「親切」というのは

「自分以外の存在のために ”何か実際的な行動をする”こと」

と言い換えられそうです。

 

わたしは先日

あることを思って

少し迷っていました。

 

それはある人の人生にとって

「大切なこと」でもあるけれど

一方で

「”その人自身”の”選択の結果”である」

ということも

同時によくわかっていたからです。

 

たとえばA君が

「ボールを真上に投げた」とします。

 

そのボールが落ちてきて

投げたA君の頭に落ち 痛かったとします。

 

「今のわたし」は

「痛がっているA君」を目にしています。

 

「痛がっている人を放置する」のは

一見 冷たい対応

つまり「親切ではない」とも思え

そうなるとモヤモヤするわけです。

 

「こういうのって 冷たいかな」

 

「こういうのって 優しいとは言えないのかな」

 

「こんなんじゃダメだよね」

 

なので

「どうにかしてあげなくちゃ」

と感じたりします。

 

これはどちらかというと

「本心から」というより

義務感に近いかもしれません。

 

学生時代によく見聞きした

「人には ” 親切に ” しましょう」

という標語が生きているとも言えます。

 

ところが

先ほど書いたように

そのボールを投げたのは

「他の誰でもなくA君自身」です。

 

でも そのことについて

A君は「自分が投げた」とは言いません。

 

言わずに「痛い!」と怒ったり

泣いたりするわけです。

 

こういうシーンは

生きていれば

目にする機会もあると思います。

 

あるいは

身につまされることですが

「自分がA君」ということも

十分ありえます。

 

ここで必要になってくるのが

さきほど触れた「優しさ」だと

最近になって

つくづく感じ入るようになりました。

 

そうでなければ

ただ「親切であること」のみに

重きを置いてしまうと

「場当たり的な反応」となりかねません。

 

そうしてしまえば

「親切」としてしたはずのことが

かえって状況や相手との関係を

「今以上に悪化させること」さえあります。

 

とはいえ

親切にしてもらったことは

わたしの人生でも何度もあり

それはいつも

「温かくわたしを照らすもの」として

残っていますし

きっとみなさんにも

そうした素敵な思い出が

いくつもあることでしょう。

 

ただし

それらすべてが

即座にそうなったかというと

そうではありません。

 

「親切のつもり」でも

「よかれと思って」してくださっていても

受け取る側に

「その準備や用意ができていない」のなら

「どんな素晴らしい親切も”届かない”」ということも

わたしは多少なりと知っています。

 

それでもなお

「親切である」ことを貫くのも人生ですし

そういう人生も素敵だなぁとは思うのですが

わたし自身としては

以前のように「そうでなくては!」と

気負うことはなくなりました。

 

うまくはいえないのですが

実際の経験や

スピリチュアルな学び

あるいは書物などをとおして

「禍福の全ては ” 人生の学び ” であり

 それは ” その人に必要なもの ” であるから

 それを ” 他者が ”

 合理的であれ 道義的であれ

 よかれと思って

 横からどうこうしようとしても

 本当の意味で取り除くことはできないし

 実際うまくいかないだろう」

ということに至ったからです。

 

そのことから卒業

あるいは実際に取り除くには

本人がそのことに気づき

本人がそのために何か動き出す以外に

方法はない というのがわたしの考えです。

 

他人のことは「よく見えます」

 

だからつい「よかれと思って」

何かしてしまいたくなることも

あるかもしれません。

 

けれども 実際のところ

わたしにできることは

そういうことではないんですね、きっと。

 

わたしにできること

あるいは本来  期待されていることは

「わたしが ” わたしの人生 ” を生き

 わたしが ” わたしであること ” を楽しみ

 それによって ” わたしが輝くこと ” 」

以外にありはしないんだなぁと思うのです。

 

それがいかにささいなことであっても

それはそれでいいんでしょう。

 

たとえば

子どもを寝かしつけたら

誰よりうまい とか。

 

洗い物が超絶的に早くてきれい とか。

 

蝉をつかまえさせたら名人級 とか。

 

「えー そういうんじゃなくてさ~」

と言いたくなるようなものでも

それも「わたしらしく輝く形」と

誇らしく感じていれば

それが何よりなんです。

 

きっと。

 

わたしの迷いごとは

この一連の気づきによって

「相手に任せよう」

ということになりました。

 

優しいとか親切とかは判断で

わたしは

「そもそも ” 判断 ” から卒業したんだった」

ということを

ふと思い出したからでもあります。

 

このまま行けば

あのおもちゃにつまずいて

転んでしまうかもしれない。

 

子どもの歩く先にある

おもちゃに気づいたら。

 

サッと走り寄って

おもちゃを取り除く人。

 

黙って様子を見ている人。

 

どちらが「優しく」

どちらが「親切」でしょうか?

 

でもそれは

実際のケースでないと

言い切れませんよね。

 

子どもの発達にもよりますし

おもちゃの形状にもよりますし

道の状態にもよります。

 

だから 正解はありません。

 

正解はないけれど

なにかを選び取るのが人生です。

 

そうであれば

せめて「選び取る基準」を持っていることが

大切になるのではないでしょうか?

 

ですからわたしは

その基準を「わたしが本当にそうしたい」

にしてみました。

 

義務とか 正義とか

いい人とかは 横に置いて。

 

できるとか わかるとか

そういうことも 横に置いて。

 

本当に

「ただ自分がそうしたい」が基準です。

 

こうなったら

言い訳もできませんしね。

 

ちょっと

散らかりましたが

なんとなく伝わるでしょうか?

 

こんなふうにしか

表現できませんが

何か伝わるといいなと思っています。

 

それではまた。