畑へと続く細い道を
小さな背中が行く。
(めずらしい)
モモコはコーヒーを飲みながら
その姿を見送った。
サツキがアパートに来て
半年が経とうとしている。
その間慣れない生活に
手が回らぬだろうと
セツコの畑も
みんなで手分けして耕してきた。
サツキに畑のことは
一つも言っていない。
セツコは好きでやっていたが
後を引き継いだサツキに
その気がさらさら無いのは
先刻承知の上だ。
年寄り所帯のこのアパートで
そうでなくともサツキは
面食らうことが多かったはずなのだ。
(セっちゃんさえ
戻ってきてくれたらねぇ)
そう思わずにはいられない。
だからこそ
サツキが住みたいと
連絡を寄越してきた時は
悩みに悩んだ。
セツコが入院先で
あやしくなっていくのに
心を痛めたのは家族だけではない。
モモコたちも
同じだった。
「無いわ」
「何がないの?鏡?」
「そんなんいらんわ。
お菓子の包み探しとんのよ」
そう言って真剣に探す
セツコを見た時
モモコは後頭部がキューっと
絞られるような感覚がしたのを
覚えている。
それだけのやりとりで
モモコはもう勘づいた。
(あぁ セっちゃんまで)
ついさっき二人で食べた
お菓子のことを
セツコは完全に忘れている。
足元にあるゴミ箱には
その包装紙や袋が
こんもりとまだ残っているのに。
「チョコレートって
書いてあったから。
モモちゃん好きだろうと思って
とっといたんよ」
そう言っては
何もないベッドの周りを
何度も何度も撫でまわる。
「セっちゃん、いいから。
わたし、いいからね」
「でも」
抹茶味と
チョコレート味と
バニラ味。
三つの味の
薄いウエハースだった。
カヨがお見舞いに
持ってきたらしい。
カヨはセツコが好きなものを
ちゃんと覚えていて
なにかあると
そのことを思い出し
そっと贈る人だった。
そしてセツコも
モモコが好きなものを
ちゃんと覚えていた。
モモコが
「なんでもチョコだと
おいしいから」と言うと
セツコは抹茶の包みを開けながら
「モモちゃんはチョコが
いいだろうけど
わたしはやっぱり抹茶だわ」と
言ったばかりなのに。
あの日から
モモコは何度か
お見舞いをためらうようになった。
今行かなければ
きっと後悔する。
そう頭でわかっていても
どうしても行けなかった。
一番頼りになると
思っていたセツコが
セツコで無くなるのを
目にしたくなかったのだ。
ずるずると行かぬうちに
セツコは隣の県の
特別養護老人ホームへと
転居していた。
モモコがそれを知ったのは
年明けの電話だった。
電話の主はセツコの息子
ゴロウの嫁のユウコだ。
これまでも何度か
電話や盆暮れの挨拶で
話したことがあったが
こんなに暗い声なのは初めてだった。
「何度かお見舞いにも
来ていただいたそうで
お礼も遅れまして」
「あぁ そんなんいいから」
お礼など言われても
こちらも困る。
「実は」
アパートを引き払うつもりだと
言われた。
もうそちらに住むことは
不可能だからと
ユウコは淡々と説明した。
あの日見たセツコは
まだそこまでではなかったのに
腰を痛めて動けないことで
急激に進行したらしい。
「それで手続きのことも
ありますから
月末にでもそちらに
伺おうと思うんですが」
「わかりました」
そう言うのが
精いっぱいだった。
遠からずそうなると
わかっていたことでも
実際こうして電話がくると
ショックは隠しきれない。
これまで
誰もいないセツコの部屋でも
家賃だけは毎月入ってきた。
振込主がセツコの息子
ゴロウ名義に変わったのは
去年の秋だ。
玄関の前で
いつもどおり井戸端会議をし
夕飯時だからと
階段を上ろうとしたセツコが
モモコの目の前で
後ろ向きに落ちてきた。
幸いなことに
登り始めのことで
それでも驚いたモモコは
大声でタダシを呼び
救急車に電話をさせた。
動かすなと言う厳しい声と
厳しい顔をするタダシに
モモコは呆然として
ただうなずいた。
頭を打っているのか
土間に血がにじんでいく。
セツコの横に座り込み
何度も名前を呼んだ。
「セっちゃん」
手を握りたいが
それもタダシが抑えた。
「何がどうなるかわからん。
触ったらいけん」
「セっちゃん」
モモコの眼はにじむ。
それでも泣くまいと
腹に力を込めた。
こんなことで
終わったりしない。
大丈夫だと
何度も自分に言い聞かせる。
永遠にも思える時間は
きっと十分かそこらだったろう。
遠くからサイレンが近づき
ようやっときた救急車に
遅過ぎるとなじりたい気持ちを
なんとか飲み込んだ。
救急車に付き添って
乗り込んだものの
セツコを取り囲む救急隊の
テキパキとした処置や
質問に答えるだけで
セツコには何もできなかった。
そうしながら
何度もセツコが
落ちてくるシーンが
浮かんでくる。
その度に
自分で自分を叱った。
終わりじゃない。
終わりなんかじゃない。
病院に着くと
何もすることがなく
タダシに電話した。
タダシはわかったとだけ返事をして
すぐに電話を切った。
今度の待ち時間は
さっきよりもずっと
孤独だった。
誰もいない廊下には
非常灯のランプと
薄暗い蛍光灯がついているだけだ。
何度か聞こえてきたサイレンは
なんの慰めにもならない。
しばらくして
足音がした。
そちらに目をやると
タダシが近づいてきた。
ゴロウに連絡したからと
静かな声で教えてくれた。
(そうか)
そういうことに
まるで気づかなかった。
タダシが居てくれて
本当によかったと思った。
何十年ぶりかで
タダシの手を握る。
汗ばんで湿った手が
ギュッと握り返してくれるのを
モモコはありがたいと思った。
握れなかったセツコの手を
今さらモモコは悔やんだ。
あの日のことは
後はよく覚えていない。
確かゴロウ夫婦が
駆け付けたはずだが
ぼんやりとした記憶しかない。
きっとタダシが
上手に説明してくれたはずだ。
埒もないことを思い出し
気持ちが沈む。
電話を切った後
モモコはたまらず
畑へと向かった。
畑にはセツコが植えた大根の葉が
冷えきった一月の風を受けて
緑の葉をなびかせている。
「セっちゃん」
モモコより三つ上のセツコは
気丈なモモコが姉のようにして
慕ってきた人だった。
セツコに初めて会ったのは
どちらも六十歳になるかならないかの頃だ。
それはモモコが
道の駅に出荷しに行った日。
いつものように
指定場所の陳列棚に
大根を並べていると
誰かがふいに
モモコの腕をグッとつかんで
ニカっと笑った。
「これ、奥さんとこの大根ね」
「そうだけど」
(何、この人)
怖くてパッと腕を引き抜くと
その女はハッと気づいて謝った。
「痛かった?」
悪びれもせずに
笑いかける女は
クマの模様があちこちについた
薄いオレンジ色のかっぽう着に
ロングスカート姿だった。
早く立ち去りたい。
道の駅でなくとも
病院やら
スーパーやらで
時々こういう人に出くわす。
スキンシップが過剰で
言いたいことだけ言って
勝手に去っていくのだ。
たいてい年寄りが多い。
若い人はこんなことはしない。
その手合いかと思い
モモコはうんざりして
すぐに陳列作業に戻った。
それなのにその女性は
全く気にならないのか
しゃべり続ける。
「孫がね、苦手なんだわ。
でもこの大根は”おいしい”って
おでん何個も食べたのよ」
そう言われて
悪い気はしない。
「あぁ、そりゃよかったです」
ちょっとだけ会釈をして
大根を手早く並べ
足早に立ち去ろうとしたモモコに
なおも話かける。
「だからいつか
お礼言いたいと思っとったの」
そういうとまた
勝手にモモコの手を握った。
「ありがとうございました」
「うちの子は好き嫌い多いけど
そりゃ”おいしい野菜を知らんだけ”と
ずっと思っとった。
でも自分で作っても
思うような味にならんもんで
食べさせたくても食べさせられんで」
「あなたのお蔭で
おいしいってことを伝えられました。
ありがとう」
そう言って笑うと
勝手に去っていった。
唖然とするモモコは
その背中を見送るしかなかった。
何事もなかったかのようにして
静かに売り場を後にし
軽トラの荷台にカートを置いて
運転席に乗り込んだ頃
やっとモモコは
自分が鼻歌を口ずさんでいるのに
気づいた。
鼻歌は島倉千代子の
「人生いろいろ」だ。
「あなたのお蔭です、だって」
思わず笑みがこぼれる。
しまりのない顔に
ハッとして
「何やってんだ」と
つぶやいてエンジンをかけたが
その後もずっとルンルンだったのを
覚えている。
そんなこと
初めて言われた。
親の広げた畑を
モモコが引き継いだのは
夫のタダシが「やりたい」と
モモコを口説いたからだ。
それまで気にも留めなかったのに
タダシは五十歳の誕生日を超えた頃から
急に畑を気にし始めた。
「定年になってからじゃ
ちょっと遅い気がしてな」
そういうもんかと
モモコは呆れ半分で
聞いていた。
初めは勝手にやればと
背を向けていたのが
アレができた
コレがうまそうだと
楽しそうにされれば
どうしたって気になる。
それでいつの間にか
モモコまでやる羽目になったのだ。
タダシは人を乗せるのが上手い。
気の強いモモコを
上手に転がす。
モモコが畑に姿を出すと
その週の内に
やれ網つきの帽子だの
園芸手袋だの
長靴だのと
モモコが気に入りそうなものを
勝手にみつくろっては
次々に買ってきた。
「女の人はそういうの好きだろ」
幾つになっても
こうした贈り物に
モモコは弱い。
タダシは自分の身なりは
気にもしないから
なおさらだった。
自分は着古した
長袖シャツに野球帽で
あちこちに虫刺されを作っている。
「あんたこそ被りなさいよ」
そう言っても
ちっとも言うことを聞かない。
「はいはい」
返事だけで
まったくその気がないのが
丸わかりだ。
そうして畑をやるようになると
モモコは持ち前の
責任感と主婦の感覚で
「買いたいものを作る」を
徹底し始めた。
「自分の口に入るだけじゃ
時間がもったいない」と
試行錯誤を繰り返し
道の駅に出荷することも始めた。
出荷したからと言って
全てが完売するとは限らない。
値段が安くても
見た目が悪かったり
馴染が薄かったりすると
やはり売れ残るのだ。
なにより
この辺は年寄り所帯が多い。
それで思い切って
「農家の小ぶりセット」を
作ってみた。
大根半分にキャベツ半分
人参二本で三百円だ。
これは思った以上に
受けた。
一人暮らしのお年寄りが
思っている以上に多いようだ。
しかし
実際に買っていく人と話すことは
滅多にない。
朝の陳列は開店前だから
当然といえば当然だが
お客さんがどういう人か
想像はしても
実際にはあやふやだったし
なにより「感想」を言われるとは
思ってもみなかった。
テレビなどで
「おいしいと言われると
うれしくて」
と料理屋のおかみさんなどが
応えているのを見たことはあったが
それが自分に当てはまるとは
夢にも思わなかった。
「人生~イロイロ~」
本来なら
それでセツコとの縁は
切れてもおかしくなかった。
セツコはお客でしかなく
接点はないはずなのだ。
ところが
田舎はやはりというか
狭い。
久しぶりで行った美容院で
隣の人の声に
なんとなく聞き覚えがあると
モモコは思った。
「それが本当においしいから」
その女性は
モモコが洗髪されている時から
ずっと美容師を相手に
「おいしいもの」について
語り合っている。
その声が大きく
聞く気もないのに
聞こえてくるのだ。
その人の隣の席に案内され
思わずちらっと顔を盗み見た。
頭にタオルを巻いた女性は
ケープ姿で手をさかんに動かして
おしゃべりに夢中だ。
(誰だっけな)
顔を見ても
ちっともハッキリしない。
モモコは自分の記憶力に
ちょっとした自身がある。
勘違いとは思えないが
どうにもピンとこない。
(勘違いか)
そう思って気を取り直し
手元の雑誌をめくり始めると
「いい大根なんだわ。
道の駅だから。
買いに行ったらいいよ」
と言うのでまた顔を見た。
すると視線に気づいたのか
その人もこちらも見る。
お互い見つめ合うには
少々滑稽な姿だが
モモコは思わずじっと
顔を見た。
ニカっと笑うその顔に
「あ!あんときの」
と声が漏れた。
「どちらさん?」
相手はちっとも覚えちゃいない。
「大根の」
「あ~!奥さんか」
それでお互いの姿に
ようやっと気づいて
照れ笑いになった。
「奇遇やねぇ」
そう言われると
「本当に」と
モモコは初めて笑いかけた。
まさか自分の家の大根を
こんなところで
宣伝してくれてるとは。
「さっきの大根。
この人のとこのやつよ」
「え。本当ですか?」
それぞれの美容師まで
驚いて一同で
「すごいな」とか
「田舎って狭い」とか言いつつ
笑いあった。
それからはそれぞれ
照れもあって静かになり
モモコは再び雑誌を読み
セツコは居眠りを始めた。
モモコのカットが終わるのと
セツコのカットが終わるのは
ほとんど同時だった。
それでせっかくだからと
モモコからお茶に誘ったのだが
「ごめんけど、孫が待っとるもんで」と
断られた。
しかしセツコは
それで終わる人ではなかった。
「ちょっと待ってて」と
店の前にモモコを残すが早いか
店に戻りレジの前で何かしている。
モモコはせっかく誘ったのに
断られたことに
少々腹を立てていたのだが
よくよく考えれば
無理のないことに思えた。
ほぼ初対面なのだ。
そういうところは
タダシに無謀で勝手だと
叱られる。
(また怒られちゃうわね)
そう思ってまだかと店を見ると
ちょうどセツコが
出てくるところだった。
「コレ。コレ持ってって」
そこには
セツコの名前と
連絡先の携帯番号
簡単な住所が書いてあった。
住所の下には
「目印はポストと小さな畑」と
わざわざ但し書きがあった。
「よかったらいつでも来て」
孫が小さくて
あまり家を空けられないと
セツコは困った顔をして見せたが
「まんざらでもない顔」だと
モモコは思った。
信号のところで
「大根 また買いに行くわ」と
大声で手を振るセツコに
モモコも小さく手を振って返した。
「ありがとう!」
あれからセツコが
アパートに来るまでに
何年かあった。
「いろいろあったなぁ」
手の中のコーヒーは
すっかり冷めている。
施設に入ったセツコには
一度も会ったことがない。
折からの感染症対策で
施設どころか
自宅からですら「出てくれるな」と
お達しがでているからだ。
それが体のいい言い訳になっていると
モモコは自覚している。
自分の中のセツコ像は
いまも変わらず
あの笑顔と大声で
モモコを唖然とさせている。
もうしばらく
このままでいたい。
「あたしって
情が薄いんだわね」
誰に言うでもなく
モモコはつぶやいた。