飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

ひるね屋

昼時になり、健二は会社を出て

近所のラーメン屋を目指した。

 

いつも行く店だが

けっしてうまいわけではない。

 

ただ、すぐに出てくるのと

量が多いのが取り柄の

どこにでもありそうな店だ。

 

八月の暑さはワイシャツの首に

重くのしかかる。

 

ネクタイを緩め

ワイシャツのボタンを外すと

何も考えずひたすら歩いた。

 

と、いつもなら通り過ぎるだけの道で

妙な文字を見つけた。

 

(ひるね屋?)

 

それは隣り合う雑居ビルの間の

細い路地に小さく書かれた文字で

看板として役に立っているとは思えない。

 

路地は薄暗く

足元には瓶ビールのケースが散乱しており

お世辞にもきれいな道とは言えない。

 

腕時計を見ると

十二時十五分を指していた。

 

正直腹は減っていない。

 

時間だからと席を立ったものの

この暑さに食欲は減退する一方だ。

 

それに比べて眠さは

ひとしおだった。

 

オンラインゲームで抜けられず

気づけば夜中の三時を過ぎ

慌てて寝たからだ。

 

今朝もギリギリまで布団でねばり

しわくちゃのワイシャツとスーツを着て

とにかく出社するので精一杯だった。

 

この半年そうした生活が続いている。

 

そのせいかずっと寝不足で

仕事中ですら気を抜くと

船をこいでしまう始末だった。

 

幸い先輩に小突かれる程度で

済んでいるが

厭味ったらしい上司に見つかるのも

時間の問題と自分でもわかっている。

 

そのせいだろう。

 

健二はさっさとラーメンを諦めて

路地に入ることにした。

 

薄暗い路地の足元は

一昨日降った雨の水たまりか

いまだにあちこち濡れたままだ。

 

それでも確かにその道の先は

明るいし何か建物が見える。

 

眠気と暑さで回らない頭を

なんとか使おうとするが

うまくいかない。

 

あっという間に路地を抜けると

そこには赤茶色の板塀が見えた。

 

裏通りとおぼしき通りには

一軒ぽつんと民家があるだけだった。

 

板塀と変わらぬ赤い屋根瓦の

平屋には庭木がしっかり茂り

中の様子をうかがい知ることはできない。

 

路地伝いに表の喧騒は聞こえるものの

この家から聞こえるのは

場所に似合わぬ蝉しぐれだけだった。

 

(まじかよ)

 

少し怖気づきながら

それでも古びた門の前まで行くと

確かに「ひるね屋」と表札程度の看板があり

「商い中」の文字も

小さく掲げられていた。

 

「店、だよな」

 

思わず独り言が漏れる。

 

入り口はガラスのハマった引き戸だが

明かりらしきものは見えない。

 

いつもの健二なら

とっとと回れ右をして

来た道を戻っただろう。

 

触らぬ神になんとやらだ。

 

ところが寝不足の力は

計り知れない。

 

健二はそのまま門をくぐり

引き戸を引いた。

 

カラカラと軽い音と共に

するっと戸は開く。

 

入った正面に人が居た。

 

それは懐かしい風呂屋の

番台にしか見えない。

 

向かって右手に「男」

左手に「女」とかかれた

大きな暖簾が架かっている。

 

暖簾の奥には木戸があり

その左右には施錠できる

靴箱がズラッと並んでいた。

 

「いらっしゃいまし」

 

「あ、どうも」

 

それ以外何が言えただろう。

 

番台の上にいるのは

白髪の若い女性だった。

 

あごのあたりで切りそろえた髪に

からし色の和服を着ている。

 

狐顔というのか。

 

シュッと線を引いたような

細い目をした女性が

座っていた。

 

女性は健二を見たまま

それ以上何も言わない。

 

健二はどうするべきか

わからないまま

女性の方へ近寄って行った。

 

「あの」

 

「はい、いらっしゃいまし」

 

(これはどういうシステムなんだ)

 

番台の手前は土間に簀の子が敷き詰められ

上がるには靴を脱ぐ必要がある。

 

健二はここで

「まずは確認する」ことを

思い出した。

 

「ここって、昼寝ができるんですか?」

 

「はい」

 

女性はうなずきながら

不思議そうに健二を見やる。

 

「えっと、初めてなので」

 

「そうですか。では」

 

女性はそこから

スラスラと流れるように

店の仕組みを説明し始めた。

 

店は「昼寝の場所」を

提供している。

 

昼寝のコースは二つあり

仮眠を主体とした「浅寝」と

のんびり休む「深寝」とあり

昼休憩での利用や

初めてであれば

「浅寝」がよかろう。

 

寝るにあたっては

先払いで入場料があり

そこには「枕替わりの座布団」と

「布団変わりのバスタオル」が

セットでついてくる。

 

浅寝は五百円で

一時間未満のご利用。

 

深寝は千円で

閉店までのご利用。

 

バスタオルは大きなタオルケットに

交換できるが別口で

百円必要だ。

 

奥にはシャワー室があり

利用するのであれば

着替えの部屋着と下着

歯ブラシを用意してあるが

こちらも別口で

五百円必要となる。

 

「いかがなさいますか」

 

健二は説明を聞いてすぐに

「浅寝で」と応えた。

 

財布にはランチ用の

五百円玉がぎっちり入っている。

 

ラーメンで使うはずの

五百円を番台に置くと

女性はニコっと笑った。

 

「確かに」

 

女性は五百円を受け取ると

右手の木戸の方を指し

部屋には長椅子の部屋と

畳だけの部屋があり

浅寝であれば

長椅子を使った方がいいと

告げた。

 

「長椅子でお休みの方は

 不思議と皆様

 ほどほどのところで

 お目覚めになられることが

 多いので」

 

目覚めの声掛けが必要なら

それも別口で百円必要だが

長椅子で寝ればその心配は

ほとんどないとも言った。

 

「あ、それから」

 

貴重品の類は

全て靴箱に入れて

身一つで入ってほしいと

引き留められた。

 

「え、スマホも?」

 

「はい。相済みませんが。

 ここは電波の入りも悪く

 お店の性質上

 皆様の治安のためにと

 先代からの決め事でございますので」

 

そう言われて健二は

スマホを手に取ると

確かに電波は入らない。

 

慌てて土間を

あちらに寄ったり

こちらで背伸びしたりすると

なんとか一本立つか立たないかだ。

 

「本当だ」

 

これじゃ電話も

架かってこないだろう。

 

スマホの時計は

十二時二十分だった。

 

昼休みはあと四十分しかない。

 

どちらにしても

寝るのにスマホは要らない。

 

いつもならアラームをセットしないと

不安で眠れないのだが

それも百円払って

声掛けを頼めばいいだけだ。

 

「じゃあ、声掛けもお願いします」

 

そういうが早いか

さっさと財布から五百円を

抜き取る。

 

ここからなら十分あれば

会社に戻れる。

 

「十二時四十五分で」

 

「はい、承知しました」

 

お釣りを受け取り

靴と一緒に

財布、スマホをしまうと

鍵をかけた。

 

鍵はしっかりした

シリンダー式の鍵で

長い紐がくくってある。

 

「紐を首から下げて

 服の内側に垂らし

 お使いください」

 

健二がうなずいて

暖簾をどけ

木戸をくぐると

女性の声が聞こえた。

 

「お休みなさいまし」

 

 

 

 

木戸の先は

誰かの家の居間のようだった。

 

広い畳敷きの和室が

二部屋並んでいる。

 

正面には大きな掃き出し窓があり

奥には庭と旺盛な緑の木々

その手前にはひまわりの

黄色が見えた。

 

向かって右手は

十二畳程あろうか

ちょっと広めの和室に

長椅子が整然と並んでいる。

 

左手の和室には

六畳ほどの和室が

広がっているだけで

どちらの部屋にもの

人の気配はなかった。

 

庭からは蝉しぐれが

延々と聞こえてくる。

 

それ以外の音は聞こえない。

 

エアコンが架かっているのか

窓が開いているのにも関わらず

外の暑さは全く感じられなかった。

 

部屋の隅には

冷蔵庫があり

開けてみると

水と麦茶らしきポットが

入っている。

 

その横には

小さな折り畳みのテーブルと

その上に湯沸かしポット

それに茶葉のティーバックと

グラスや茶器が並んでいた。

 

(ご自由にお召し上がりください)

 

ちょっと黄ばんだ和紙に

書かれた文字は美しい崩し字だった。

 

長椅子はどれも籐製で

足元には同じ籐製のオットマンが

ちんまりと置いてある。

 

「こりゃいいな」

 

籐製の椅子は風を通し

背中の熱を沈めてくれる。

 

健二は靴下を脱いで

椅子の下に丸めると

グラスを持って

冷蔵庫から麦茶を取り出し

注いだ。

 

一気に煽ると

そのまま椅子に掛けて

横になる。

 

麦茶は懐かしい味がした。

 

ヤカンで淹れたのだろう。

 

香ばしい味と

麦の香りもしっかりする。

 

裸足になった足先を

風がスルスルと撫でていく。

 

(最高だ)

 

気づけば蝉しぐれも

止んでいた。

 

部屋を通る涼やかな風と

静けさに

初めてとは思えないほど

健二は安心しきっていた。

 

(これなら)

 

そう思うが早いか

健二はすっと眠りについた。

 

 

 

 

 

「お客様」

 

「お客様」

 

健二の肩を

誰かがポンポンと

叩いている。

 

「お時間ですよ」

 

(誰?)

 

脳は起きたが

体がまだだ。

 

「ん」

 

ちょっと伸びをして

なんとか眼を開けると

女性がのぞき込んでいる。

 

「お目覚めですね」

 

しばし健二は

考えが浮かばなかった。

 

見上げた天井は

見覚えがあるような

ないような木の天井だ。

 

(ん?)

 

そうだった。

 

ふと腕を上げて時計を見ると

針は十二時四十六分を指していた。

 

「あぁ、そっか」

 

ようやっと思い出し

再び寝たままグッと背伸びをする。

 

蝉しぐれがまた

うるさく鳴きたてている。

 

「どうぞ」

 

差し出されたのは

グラスに入った水だった。

 

起き上がって受け取ると

女性はスッと立ち上がり

そのまま去っていった。

 

水はちょっとぬるめで飲みやすく

起き抜けの体に

隅々まで染みわたるようだった。

 

まだ少しぼんやりするが

体はすっきりしている。

 

サッと立つと

グラスを使用済みの籠に入れ

ちょっと辺りを見回した。

 

(いいとこ見つけたな)

 

木戸を開けて

暖簾をくぐると

番台に女性は座っていた。

 

「いかがでしたか」

 

「すごくスッキリしました」

 

午前中の朦朧とした自分が

嘘のように思えた。

 

「それはようございました」

 

女性は涼やかに微笑んでいる。

 

「あの」

 

健二はふと思い立ち

靴を履きながら尋ねた。

 

「ここっていつからあるんですか」

 

女性はちょっと

小首をかしげた。

 

「いつでしょうね。

 わたしも引き継いだばかりなので

 詳しくはないんですよ」

 

それ以上応える気はないらしい。

 

「じゃあ、また来ます」

 

足取りも軽く店を出ると

迷わず路地へと

ずんずん進んでいった。

 

会社の前まできて

ふと健二は振り返った。

 

(本当にあったのかな)

 

眠気が晴れているのも

体が元気なのも

疑いようのない事実なのだが

雲をつかむような話だった。

 

誰かに訊こうかと

思ったがすぐに止めた。

 

なんとなくだが

誰にも言わない方が

いいような気がしたからだ。

 

口にすれば

消えてしまう気がした。

 

席に戻り

パソコンでそっと検索してみたが

やはりというか

無関係なページしか出てこない。

 

「ん~」

 

「おい、何が”ん~”だ」

 

小突かれたのと同時に

上司がミーティングの開始を告げたので

思索は一時中断することにした。

 

(ま、また行けばわかるさ)

 

しかし

それから不思議と

健二は夜更かしすることはなくなり

つられて朝寝坊もなくなった。

 

というのも

あんなにハマっていたオンラインゲームが

なぜか急に色あせてみえたからだ。

 

代わりに

以前から先輩に誘われていた

クライミングや近所の山へ

登りに出かけてみると

そのおもしろさに

どんどハマっていった。

 

厭味ったらしかった上司も

実は登山愛好家とわかると

お互い自然と会話が増え

職場はがぜん居心地よくなった。

 

山登りは体力が資本と言われ

自分から進んで早寝早起きをして

朝はランニングまで始めた。

 

会社から帰れば

新しいギアや体験談を検索したり

山登りにまつわる

番組を見たりするので

頭がいっぱいになる。

 

そうこうするうちに

寝不足はあっという間に解消され

気づけば昼寝の必要がなくなり

いつの間にか

「ひるね屋」のことも忘れていった。