飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

星ものがたり うお座の太陽 ノーアスペクトの太陽を水星が支える

「王様」

 

またいつものように裸足で

いつものように手ぶらで

 

「もう夕方ですよ」

 

「うん」

 

(いつからこうしてたんだか)

 

大地の熱はもうすっかり冷えて

芽吹いたばかりの草でも

素足では痛いはずなのに

 

「帰りましょ お腹空いてませんか」

 

そのつむじには

もう白いものが混じり始めている

 

それなのに

見上げて見せた笑顔には

少しの汚れもない

 

目じりや口元に寄るシワは

少しずつ深くなるのに

澄んだ笑顔は

幼子のまま

 

「チョウチョがいたんだ」

 

「そうですか」

 

「緑の葉がきれいでね」

 

ゆっくりと立ち上がれば

優に見上げる程の背丈で

その姿だけみれば

とても逞しい人

 

「ずっと大地を見ていた」

 

「なにか 目新しいものはありますか」

 

「ずっとだ ずっと新しい

虫はよく働く」

 

そう言って

また動こうとはしないその人の

大きな手を取る

 

「行きますよ」

 

「うん」

 

この大きな手を引いて

先に歩く度

せめてこの体格差が逆だったらと

思ってしまう

 

「あ」

 

声と同時に引いた手が

グンと引き戻された

 

ふり返れば

パカっと開いた口元には

きれいに並んだ白い歯

 

「どうしました」

 

仕方なく問いかけると

初めて気づいたような顔で

ゆっくりと視線を戻し

またあの笑顔を見せる

 

「ほら」

 

サッと指さした方を

見上げれば

確かにキレイな三日月が

東の空にポッカリ浮かんでいた

 

夏と春の間の

まだ冷える夕闇の中で

その月は淡く白く輝いている

 

王様はいつも

自然の中に住んでいる

 

心ごと

 

魂ごと

 

その景色の中に

溶け込んでしまう

 

他に人がいても

何かの最中でも

そんなことはお構いなし

 

そんなことは

些末なこと

 

「目に入った美しいもの」に

全身で感じ入っている

 

ここではない

どこかへ

 

だからぼくは

この手をつかんでいないと

 

「王様 帰りますよ」

 

「うん」

 

うわの空で

返事だけの王様の

大きな手を

大きな体を

この小さな身で

引いていくのが

ぼくの役目だから

 

「明日は祭りです

今夜はご神事の前の

ミソギですからね」

 

「そうなの?」

 

初めて聞いたような顔で

まっさらな目で見つめられると

あたかも報告していなかったような

気持にさえなる

 

「お伝えしてますよ 先週から毎日」

 

自分の宣言に

自分が後押しされるのも

不思議なものだ

 

「そうだっけ」

 

しぶしぶでも

いやいやでもなく

ただ興味のないことは

いつも記憶から消えてなくなるのだ

この人は

 

「お仕事ですからね」

 

「はい」

 

王様なのに

この人には存在感がない

 

「ここにいる」

という存在感が

まるでない

 

静かについてくるその様子は

この手の温度がなかったら

この手の感触がなかったら

まるで誰もいないかのように

 

野生の獣のように

 

だからすぐ

溶け込んでしまうのだ

 

自然の中に

 

喧騒の中に

 

その大きな体を

そっと小さくして

主張もせずに

ただその中にいて

ニコニコと笑っている

 

人ではないのかもと

見つける度に思う

 

「シロー」

 

「なんですか」

 

「明日は晴れる」

 

興味は無くても

祭りには晴れるものだと

この人は信じて疑わない

 

「そうですね 雲一つない」

 

歩きながらも仰ぎ見た空は

昼までの土砂降りが嘘のように

どこまでも澄んだ淡い青から

濃い闇へと変わる途中

 

「うん」

 

王様の祈りは

いつも届く

 

毎回

 

ただ

人のためだけに

 

自分のことは

祈れないらしい

 

「それだと

ぼやけるんだよ」

 

自分のことは

自分でやるだけで

祈る必要はない

 

「他の人のことは

わたしにはどうしようもない」

 

「わたしにできるのは それだけだから」

 

きっぱりと言いきることは

珍しい

 

王様の祈りの中に

自分はいない

 

王様の祈りの中には

他者だけ

 

祈りで

自分の思いを

天に預けて

 

人の力の及ばないことを

天に

目に見えぬ大いなる愛に

託して

 

「シロー」

 

「なんですか」

 

「お腹空いたね」

 

ため息交じりで引いた手は

今度は素直についてきた

 

王様の時間は

いつもどこか異世界的で

王様はそこに

たった一人で住んでるように見える

 

それなのに

ちっとも寂しそうに見えないのは

この世界の

ありとあらゆる愛を

健やかに育つ命の営みを

当たり前のように

全て掬い取って感じているからだ

 

人だけではなく

木々や大地の

雨風の

モノ言わぬ命たちの

絶え間ない営みの調べに

いつも全身で聞き入っている

 

人の中にある

弱肉強食も

善悪も

すべては

大きな風になびく

一面の稲穂のように扱う

 

「誰もが変わる

だから 今が全てじゃない

それさえ わかっていればいいんだよ」

 

王様が

時折見せる片鱗に

身震いしてしまう

 

ぼくは時々

この人のことを

全てわかったような気になっていると

思い知らされるから

 

「今夜はシチューみたいですよ」

 

「白いのがいいな」

 

「トマトでしたよ」

 

何も言わず

衝撃を受けているのがわかるのは

手をつないでいるからなのか

それとも

この人が開けっぴろげだからか

 

この手を引く

 

それがぼくの仕事

 

この人の行く道を

支えるのが

ぼくの人生