飛ぶ鹿

内側に目を向けて育てることで外側の行動も変わります。小さな一歩を積みかさねて。

「No」を受け入れることで始まるもの

みなさん

いかがお過ごしですか?

 

今日12月15日深夜に

いて座の新月を迎えました

 

次の新月は来年

 

「次の○○は年明けです」

ということが多くなりますね~

 

あと15日ある2020年

 

あなたは

どんなふうに過ごされるでしょうか?

 

さて

今回は「NOを受け入れる」

ということについて

お伝えしようと思います

 

自分が相手に

Noを言うこと

 

相手が自分に

Noを言うこと

 

これって

どちらも慣れないと

ドキドキしたり

ハラハラしたりしちゃいませんか?

 

わたしは

つい最近まで

どちらもドキドキ

ハラハラしてました

 

とくに

勇気をふりしぼって

話したことに「No!」と言われると

グサーっと来ちゃいますよね 笑

 

 

このグサーっは

一体なんなんでしょうか?

 

あなたは

なんだと思いますか?

 

きっとそれぞれ

いいアイデアがあると思います

 

わたしが思ったのは

こういうことでした

 

それは

「伝えた内容ではなく

わたし自身に対するNoと混同していたから」

 

それは

たしかにグサーですよね 笑

 

けれども

よく振り返ってみると

身の回りのささいなことで

自分はあれこれと同じようなことを

何気なくしていることに気づきます

 

 

たとえば

どんなに大好きな果物でも

煮たり

乾かしたり

違う形になっちゃうと

なんとなくピンとこない

ということありませんか?

 

大好きだけど

そのパターンは苦手

ということ

 

自分のNoや

相手のNoも

本当はこれと同じかもしれません

 

あるいは

果物は好きだけど

○○はどうしても苦手

ということ

 

これも

ありふれたことですよね

 

なんでもすべて好き!

という人もいますが

そうでない人もいます

 

違っていることを

どうこうしようと思うことさえ

ありません

 

そう思うと

内容であれ

わたし自身であれ

Noを言うことも

言われることも

当たり前じゃないか

と思えるようになりました

 

この感覚は

育った環境や

性格が大きく出ることと

感じています

 

「そんなこと

なやんだこともない」

という人のほうが

多いかもしれません

 

そうなんですよね

 

そこが

人生のおもしろいところです

 

わたしの感覚と

他の人の感覚は

想像以上にズレている

ということはあります

 

それがすなわち

「わたしにとっての今回の宿題」

らしいのです

 

これについて

何年か前に考え直すキッカケが

ありました

 

それは

家族とのイザコザの最中のことでした

 

若い頃で

相手に対して寛容な態度だけを

常に求めていました

 

そのくせ

自分の未熟さは

棚上げしていました

(今でも耳が痛いです 笑)

 

そういった状況の会話は

ぶつかることが当然多かったんですね

 

その日も

完全にぶつかっていました

 

口ではぶつかりながら

相手の拒否をヒシヒシと感じながら

内心で本当に困り果てていたんです

 

どうしたらいいのか

まったくわからない

 

そんな思いを抱えながらも

諦めきれずに怒鳴っていました

 

すると

ある瞬間に

パっと湧いてくる思いがありました

 

このままでいいじゃないか

 

相手と自分が

同じ道を歩けなくてもいいじゃないか

 

共には歩めなくても

心から大切に思うことはきっとできる

 

天啓? 笑

 

本当に急に

そう思ったんですね

 

悲しいの臨界点に立ったことが

功を奏したのかもしれません

 

そう思った直後から

それまでどうしてもできなかった

家族離れをしました

 

しばらく完全に離れたんです

 

お互いが完全に冷静になるには

時間と距離が必要でした

 

そして何年も経ち

あるサイトで

こういう教えを見つけたんです

 

Noを上手に受け止められなかった

かつての自分や相手

どちらを責める必要もない

 

それを知った時

「なんだ、もう手放していいのか」

「なんだ、もうがんばらなくていいのか」

と肩の荷が一気に下りた気がしたんですね

 

口では大切といいながら

実際には苦しませてばかりいること

 

それでもなお消えない本音の生き方

 

どうしても真逆になる現実に

いつもどこかで申し訳ないと

思いつづけていたわたしに

その言葉は本当に救いでした

 

すぐには

ぜんぶ下ろせなくても

そう思い始めることで

知らぬ間にサーっと

新しい流れに乗れるようなんです

 

そして

○○できなかった自分や

○○しなかった相手に

「あのときはそれしかなかったんだよね」

と一つずつOKすることこそが

好転へのスタートでした

 

実際にしてみると

本当にそうなんですね

 

それが無くなるにつれて

ほんとうに世界が

どんどん変わって見えるようになりました

 

ちょっとあやしい言い方をすると

違う世界に移動したの?」

というくらい

明るく見えるようになったんです

 

あやまちについて

責め続けることが

本当の理解とする風潮もあります

 

そういう考えも

ありだと思います

 

無理にかえる必要なんて

少しもありません

 

ただ

そうして責め続けていると

自分だけではなく

周りの人のちょっとしたあやまちまで

責めたくなってしまうような気がしています

 

 

「違ったなぁ」

 

そう思ったら

そこで修正して

次から違う方法を実行するだけで

もう十分ではないでしょうか

 

そうすれば

他の人に対しても

不思議とトンガッた気持ちは

湧いてきませんし

なんだかいつでも気持ちが楽でいられます

 

平和というと

すごく大それた響きに聞こえます

 

けれども

本来の意味は

そんなたいそうなものではなく

毎日の中で少しずつ

自分でできるささいなことを

丁寧に大切に積み重ねていくことで

成り立っていくものではないでしょうか

 

あなたは

どう思いますか?

 

それでは

ここまで読んでくださった

あなたに

 

ありがとう!